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季刊誌「ムラマツ」に掲載されたエッセイをご紹介いたします。
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エッセイ「もがりぶえ」 ESSAY
文:團 伊玖磨
11 「楽聖と眼鏡」
 細かい音符を書き過ぎたためであろう、40才の時から老眼が進み、42、3才の頃には既に老眼鏡が無ければ作曲が出来無くなった。作曲は密室内の作業だから未だ良かったけれども、ピアノを弾く時と、指揮をする時はほとほと困った。40才代で人前で老眼鏡をかけるのはじじむさくて厭だったばかりでは無く、書く時の眼鏡とピアノを弾く時の眼鏡と指揮をする時の眼鏡は距離の関係でそれぞれ異なり、面倒で遣り切れなかった。

 その頃旅に出たモスクワで、郊外のクリンのチャイコフスキーの家を訪ねる機会に恵まれた。散歩道のある庭には彼自身が植えた3本の白樺が亭々と空に緑の梢を伸ばし、数多(あまた)の名曲が生まれた書齋の窓下には大葉擬宝珠(ぎぼうし)が淡紫の花を夏の風に揺らせていた。書齋の机の上には、ペン、インク壷、吸い取り紙、何故か巻き尺等が置かれ、あの有名な肖像で馴染(なじ)みの鼻眼鏡もそこにあった。丁度老眼に興味を持ち出した頃だったので、管理人の小母さん(この女性は大作曲家の血縁の人だった)に頼んで、鼻眼鏡を掛けてみた。その結果知った事は、チャイコフスキーの老眼は可成り強い事だった。

 西独のボンのベートーヴェンの生家には、楽聖の毛髪、補聴器もあったが、2つの老眼鏡が並べてあった。これも管理人に頼んで度を調べた。何才の時のものかは判らなかったけれども、2つとも、ベートーヴェンのものはチャイコフスキーのものより遥かに弱かった。ベートーヴェンは、21才の時にボンを出てウィーンに行き、死ぬ迄帰る事が無かったのだから、生家の補聴器や老眼鏡はウィーンから取り戻した物なのであろう。然し、ウィーンにも補聴器、老眼鏡があって、一寸変な気がする。

 ミラノから車でトール・デル・ラーゴの村のプッチーニの仕事場に行った。自動車の国際免許証や、この大作曲家が愛した水禽獵のための十数本の獵銃や、写眞類も面白かったが、書齋の机の上には老眼鏡があって、こゝでも亦度を調べさせて貰った。度はベートーヴェンとチャイコフスキーの丁度中間位だった。

 ウィーンのシューベルトの生家にはこの楽聖の眼鏡がある。無論これも調べさせて貰ったのだが、シューベルトのものは、前述の3人の大音楽家のものとは異って近眼鏡であって、然もその近眼の度はえらく強かった。僕の調べたシューベルトの近眼鏡は、普通耳に掛けて終る弦(つる)が、もっと後方迄伸びていて、左右の弦の先端が頭の後方で出合うようになっていた。

 静岡の久能山に行った時には徳川家康の使用したという2つの老眼鏡を見た。然し、家康は音楽家でなかったので興味が湧かず、度は調べなかった。因みに、日本で最初に眼鏡を使用した人物は室町幕府第十二代将軍足利義晴だったと言われ、その眼鏡は京都の大徳寺内大仙院に所蔵されている。

 昔の音楽家は暗い?燭の下で細かい楽譜を書いていたために、眼を悪くする人が多かった。バッハもヘンデルも、最晩年は盲目になっていたと言われる。沢山の音楽家が眼を悪くした事を思うと、楽聖と眼鏡の関係も冗談事で無く思われる。

(このエッセイは、1983年より93年まで、季刊 『ムラマツ』の巻頭言として、團 伊玖磨氏に執筆していただいたものを、そのまま転載したものです。)
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