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i サン=サーンスは哲学や考古学など幅広い興味をもちましたが、天文学にも強い関心がありました。この望遠鏡は1858年に作曲したアルモニウムとピアノのための『6つの二重奏曲 Op.8』の作曲料500フラン(現在の価値で約50万円)で購入したものですが、後にフォーレの子どもたちまでもが天体観測を楽しみます。その後この望遠鏡は、フォーレの子どもたちが譲り受けることになります。

 

ii 結局パリでのタンホイザー上演は失敗に終わり、失意のもとワーグナーはパリを去ることになります。自宅をたたみパリを去るまでの間、ワーグナーはパリ駐在プロイセン公使のもとに身を寄せますが、夜な夜な行われるパーティーでピアノを受け持ったのが25歳のサン=サーンスでした。つまりサン=サーンスは傷ついたワーグナーに最後まで寄り添っていた人物ということになります。

 

iii サン=サーンスはリストやワーグナーから計り知れない影響を受けましたが、一方そのリストやワーグナーに影響を与えたフランス人にベルリオーズが居ました。フランスではなかなか正当に評価されないベルリオーズの価値をリストは高く評価し、積極的にドイツに紹介したことにより、ベルリオーズは国外で活躍するフランス人としてのパイオニアとなりました。しかしベルリオーズは、パリで台頭し始めるワーグナーに批判的な記事を書き、リストやドイツ国民から反感を買ってしまったことと、家族の不幸が重なり、1863年以降外国での活動はしだいに立ち消えとなっていきます。そのベルリオーズと入れ替わるように国外での活動を増していくのがサン=サーンスです。そのサン=サーンスもまた、リストに積極的に紹介されたおかげで、ドイツでの活動が多くなります。

 

iv セダンの戦いの敗戦でナポレオン3世が捕虜となると、フランスの劣勢は決定的となり、ついに翌年1月19日、包囲されたパリを死守するための最後の出撃(第二次ビュザンヴァルの戦い)が繰り広げられます。ルニョーはこの激闘で勇敢に戦い、命を落とします。

 

v サン=サーンスはまさに着の身着のままパリから逃避したため、ロンドン到着後すぐにお金が尽き、早速ここでどう食いつなぐかといった切実な問題が起こりました。既にロンドンに居る先輩格のグノーに無心するわけにもいかず、様々な伝手を頼りなんとかしのぎます。
パリ脱出が3月18日以降、作曲日が3月25日というスケジュールから推測すると、非常に不安定な状況下で書いた作品ということが分かります。

 

vi クララは1871年2〜5月初旬、演奏ツアーでロンドンに滞在していますので、サン=サーンス(もしくはヴィアルドとも)と再会している可能性も考えられます。

 

vii クララはブラームスに宛てた書簡の中で、5月11日にはロンドンからバーデン=バーデンに戻ったこと、7月15日には急遽決まったスイス公演のためサン・モリッツに着いたことを書いています。このスケジュールから考察すると、日程的に7月13日公演に立ち会うのは厳しいと思われますが、8日の公演時にはバーデン=バーデンに居た可能性が高いと考えます。

 

viii M.モイーズ『フルート アンブシューア、イントネーション、ヴィブラートの練習』シンフォニア社