× このウィンドウを閉じる |
i サン=サーンスは、若手の作曲家が奨励されず、器楽曲を発表する機会すら与えられないフランスの状況を憂い「国民音楽協会」を設立します。 |
ii サン=サーンスは、いち早くワーグナーの価値に気づき、積極的にフランスの楽壇に紹介した音楽家のひとりでしたが、普仏戦争後、旧敵国であるドイツでは「ワーグナーの弟子」として紹介されることもありました。 |
iii このような対立の発端は、1860年1〜2月にパリのイタリア劇場で行われたワーグナー作品による演奏会にあるといえます。フランスの詩人ボードレールは、音楽批評を通しワーグナーを賛美しその輪を広げていく一方、ベルリオーズはこのような動向を将来の音楽界の分断に発展する危険な動きと察し、「もしこのような宗教があるとすれば、それは非常に新しいもの」「自分は決してその一派には属さない」と新聞紙上で述べています。 |
iv ワイマール大公臨席によるこの公演では、第2幕が終わるとサン=サーンスは熱狂的な観客からコールを受け挨拶をし、第3幕の後にも再び呼び戻され、オーケストラとワイマールの女性たちから月桂冠を捧げられます。終演後には滞在先のホテルで親密な晩餐会が開かれ、サン=サーンスは乾杯の音頭をとるなど、忘れがたい経験となります。 |
v 1875年から78年の3年の間、サン=サーンスは結婚し2人の子どもをもうけますが、その後2人の子どもを事故と病気で立て続けに失います。妻とは法的な離婚ではありませんが、1881年に離別するなど、公私ともに辛い時期であったことが想像されます。 |
vi 一方ワーグナー側からみたサン=サーンスは、以下のように映っていたようです。 後に知ったのだが、サン=サーンスは音楽の技術的素材を把握するための桁違いの能力に反して、それに見合った集中的な生産力を伴っていない。 |
vii 音楽祭期間中、バイロイトの酒場にいた時、知り合ったばかりの画家ルノワールから『ニーベルングの指輪』の四部作は長すぎるとつぶやかれます。この取るに足らない批判が癇に障ったのか、サン=サーンスはテーブルの上のグラスをカチ割り、店を出ていきました。この出来事はルノワールが後に回想したものですが、同時に酒場でワーグナーを強く非難していたことをも明かしています。 |
viii このような姿勢を傍からみれば、先陣を切ってフランス音楽再興を牽引しているはずのサン=サーンスが、ワーグナー作品を賛美するがワグネリアンは否定するといったチグハグな態度に映ります。 |
ix スターの出現によって、すべてが塗り替えられていくということは世の常ですが、次々とワーグナーに感化され追従していく若手の作曲家たちに対して、サン=サーンスはユゴーの言葉「このような天才たちと肩を並べることは可能です。でも、どうやって?他者であることです」を引用し、以下のように諭します。 若い作曲家や歌手の皆さん、何かに貢献したいと思うなら、フランス人のままでいてください。自分の時代、自分の国の自分でいてください。 サン=サーンスにとって、ユゴーの言葉は如何に心強く、拠り所としていたかが分かります。 |
x サン=サーンスは少年時代にユゴーの詩集をプレゼントされると、その深みに引き込まれ、新作が出る度に貪り読んだそうです。 パリ音楽院後、15歳になったサン=サーンスは早速ユゴーの詩による歌曲『ギタ―』を作曲します。その後生涯にわたり30曲余ものユゴーの詩による歌曲を残しますが、この数は当時の作曲家の中では群を抜いて多く、サン=サーンスはユゴーに強く感化された人物といえます。 ちなみに、愛弟子フォーレは器楽より先に歌曲から作曲を始めますが、ニデルメイエール音楽学校で、師サン=サーンスから受けた作曲の手ほどきもまたユゴーの詩によるものでした。 その後フォーレはフランスの歌曲王ともいえるほど多くの歌曲を残しますが、そのきっかけを与えたのがサン=サーンス。ここにはユゴーの詩観から歌曲の深みに導く。そんなサン=サーンスの教育的戦略があったのかもしれません。 |