ムラマツ・フルート・レッスンセンター講師の白尾隆先生に執筆していただきました。

※この記事は2014年に執筆していただいたものです。

番外編

キエフ資料のフルート作品

※本番外編は、ムラマツ通信6号(2014年10月30日発行)に「音楽史の扉」と題して掲載された内容です。

1999年10月、ウクライナ共和国のキエフで、ベルリン・ジングアカデミーの所蔵していた5200点もの資料、楽譜、書籍類が発見されました。これは第二次世界大戦後、旧ソヴィエト連邦に持ち去られ、行方不明になっていたものです。この20世紀最大級の発見を成し遂げたのはハーヴァード大学の研究チームでした。調査の中心人物には、素晴らしい著作『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:学識ある音楽家』(春秋社)を著わしたクリストフ・ヴォルフがいます。

カール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)

ベルリン・ジングアカデミーは1791年に創設され、今日も活動する世界有数の合唱協会です。もともと音楽愛好家の私的な集まりから発展し、銀行家であるメンデルスゾーンの父アブラハムなどの裕福な市民たちの参加や後援のもと、カール・フリードリヒ・クリスティアン・ファッシュ(1736-1800)により設立されました。初代指揮者に就任したファッシュは、かつてフリードリヒ大王の宮廷で第二チェンバリストを勤めており、第一チェンバリストであったカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの弟子であり、同僚でした。ベルリンのエマヌエル宅に下宿していた時期もあります。ファッシュの死後、二代目の指揮者となったカール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)は、ファッシュの弟子であり、ゲーテと親交深く、門弟にはメンデルスゾーンがいます。大バッハを尊敬する師ツェルターの影響もあり、弱冠20歳のメンデルスゾーンは1829年、ベルリン・ジングアカデミーを率いて、初演から102年ぶりにJ.S.バッハのマタイ受難曲の再演を果たしました。

フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)

文化を嫌い蔑んだプロイセンの狂人的軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の死後、その息子のフリードリヒ大王は、父王とは真逆の政策を行います。それは音楽界を隆盛させ、ベルリン・オペラを開設し、多くの文化人、芸術家、思想家等を集めて「ベルリンを世界有数の文化都市に変える」というものでした。これは、後世のドイツ、ベルリンに計り知れないほどの豊かな実りをもたらしましたが、啓蒙思想下のこの時代、音楽が教会と王侯貴族の独占的状態から離れ、知的で裕福な市民階層の重要な楽しみともなり、多くの音楽愛好家が生まれます。その流れの中でベルリン・ジングアカデミーは誕生しました。そして彼らは活発な演奏活動と共に、重要な作品や著作の収集にも力を注ぎます。これは合唱関係のものに限定せずあらゆるジャンルに及び、また存命中の作曲家の作品と共に過去の巨匠たちの作品を収蔵する、という点に重きが置かれました。2001年12月1日、キエフ資料は半世紀の歳月を経てドイツに里帰りし、ベルリン国立図書館に保管されましたが、その中には、バッハ親子の約410点を始め、ヘンデル約100点、テレマン約250点、ハイドン約60点、モーツァルト約30点の資料が含まれています。まさに世紀の大発見でした。
資料の返還後、早くも出版された3つのフルート作品をご紹介しましょう。
・G.P.テレマン/2本のフルートのための9つのソナタ TWV 40:141-149
・W.F.バッハ/フルート協奏曲 ニ長調 BR WFB C 15
・C.P.E.バッハ/フルート協奏曲 ニ長調 Wq.13

テレマンの9つのソナタは、フリードリヒ大王のフルートの師であるクヴァンツが、教育目的のために著わした"Solfeggi"に記載した旋律の断片のみにより知られていましたが、今回の発見によりその完全な存在が確認されました。この手稿譜はヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのフルート協奏曲共々ザラ・レヴィが所有し、後にベルリン・ジングアカデミーに寄贈されたものです。このザラ・レヴィ(1761-1854)という人はベルリンの銀行家の娘であり、メンデルスゾーンの大叔母にあたります。彼女は、晩年ベルリンに在住したフリーデマン・バッハについて専門的にチェンバロを習い、長じてはサロンを主宰し当時のベルリン文化を支えた重要人物の一人でした。このフルート協奏曲は、おそらくフリーデマン最晩年にザラのために作曲され、レヴィ家の夜会で初演されたものでしょう。現存するフリーデマン・バッハの唯一のフルート協奏曲であり、大変貴重です。

エマヌエル・バッハの協奏曲には、すでにクラヴィーア稿が存在しており、演奏されています。しかし、フルート稿については、古い音楽商店のカタログ(J.U.リングマッハー:1770年代)に唯一記載されているのみで、長くその存在の可能性が語られるだけでした。今回そのフルート稿が確認され、2002年いち早く出版され、今まで5曲であったエマヌエルのフルート協奏曲が全6曲になったのです。

ここに1835年、ゲヴァントハウス管弦楽団初代常任指揮者になったメンデルスゾーンが、ライプツィヒの自宅の窓から描いた美しい水彩画があります。中央に鐘楼のある聖トーマス教会に隣接する、聖トーマス学校とカントル住居の横長の建物が見えます。残念ながら現在は失われましたが、かつてJ.S.バッハが暮し活動したその建物が、この時代にはまだ存在していたのです。建物右下に見える門のすぐ上の二階の部屋、南側と西側に一つずつ窓のある小さな角部屋がバッハの仕事部屋、作曲室です。日々どのような思いでメンデルスゾーンは眺めていたことでしょう。ベルリン・ジングアカデミーについて調べてみますと、そこに一本の太い流れを感じます。流れの源の一つは画期的な文化政策を押し進めたフリードリヒ大王であり、もう一つの大きな源泉は、J.S.バッハです。彼が教育しベルリンで活動した二人の息子や弟子たち(アグリコラやキルンベルガーなど)、ジングアカデミーを創立したファッシュのような孫弟子や、さらにその弟子のツェルターたち、そして彼らを敬愛し、その影響の下、過去の巨匠たちの作品を大事に保管し演奏していった市民たち。その次世代の中からメンデルスゾーンのような音楽家が生まれます。彼らの明るく健全で合理的な、豊かで力強い“夢”に憧憬と羨望を覚えます。
  • メンデルスゾーンが描いたトーマス教会とトーマス学校の水彩画

  • ベルリンのジングアカデミー

白尾 隆


東京生まれ。桐朋学園大学卒業。林りり子、森 正の両氏に師事。ドイツ・フライブルク国立音楽大学に入学。オーレル・ニコレ氏に師事。1978年「特別優秀賞」を得て卒業。その後チューリッヒにおいてアンドレ・ジョネ氏に師事。
1980年〜1986年までオーストリアのインスブルック交響楽団の首席フルート奏者を務める。又ソロ、室内楽の分野においても活動、オーストリア国営放送に多くの録音を残す。
1986年帰国。1987年より「サイトウ・キネン・オーケストラ」国内外の公演に参加。現在、桐朋学園芸術短期大学特別招聘教授、武蔵野音楽大学・広島エリザベト音楽大学講師、ムラマツ・フルート・レッスンセンター・マスタークラス講師。
また、ソリストとして幅広い演奏活動を行なっている。