バロック・フルート奏者の前田りり子さんに執筆していただきました。

※この記事は2017年に執筆していただいたものです。

第2回

無伴奏フルートのための12のファンタジー

バロック時代「フルート」といえばリコーダーのことを意味していて、今でいうフルートを意味する時は、イタリア語なら「横の」という単語をつけてフラウト・トラヴェルソ、またはフランスやイギリスではドイツを意味する単語をつけてフリュート・アルマンやジャーマン・フルートと呼ばれていました。また形も現在の金属でできたフルートよりもリコーダーに近く、指孔は7つだけで鍵は1つしかついていません。

西洋音楽の音階は、鍵盤の白鍵に当たる7つの幹音と、黒鍵に当たる5つの派生音、合わせて12の音から成り立っています。しかし、バロック時代のフルートはニ長調に対応する7つの音にしか指孔がないため、特別な運指を使用して出す残りの5つの音は、音程、音色共に非常に不安定で弱々しくしか吹くことができません。しかし、当時の作曲家はそのような楽器の特性を熟知していたので、そんな音による個性の違いを音楽表現にうまく生かせるように作曲しました。基本的にはニ長調が基本のため、そこから離れてシャープやフラットの数が多くなればなるほど、音階の中に含まれる不安定な音の数が増え、調性によって色合いが全く変わります。

当時の作曲家には調性に対する共通のイメージがあり、例えばテレマンやヘンデルとも非常に親しかったドイツの音楽理論家マッテゾンは、ハ長調は「粗雑で生意気なキャラクター。歓喜に適している」、ト長調は「遠まわしで説得力があり、かなり輝かしい。真面目で快活なことに向いている」、ニ長調は「やや鋭くそして頑固に、騒がしく、喜びに満ちて、好戦的で、人を奮起させるような曲に向いている」、イ長調は「とても強く心を捉えると同時に輝かしい。娯楽よりも嘆きや悲しみの感情により向いている。特にヴァイオリン音楽によい」、ホ長調は「絶望の表現、または、もうこれ以上はないほど完全に致命的な悲しみ、一番あっているのは助けのない窮境や希望がない愛」、イ短調は「やや悲しげで憂鬱、高潔で穏やか」、ニ短調は「やや落ち着いて、さらにいくぶん気品があって、心地よい、そして心の安らぎを表現する」、ト短調は「おそらく一番美しい調性、真面目な性質と精神的な愛をかねそなえ、さらに滅多にないほどの優美さとやさしさをもたらす」、ホ短調は「ほとんど喜びがない、なぜならそれは普通とても物思いに沈んで、悲しんで、哀れみを誘うので。だけど、まだ復活への希望は残している」、ロ短調「琴線に触れることが出来る」などと述べています。

均等な音が美しいとされる現代において、不安定な音や調性による色合いの違いは大問題です。それを解決するために、19世紀半ばにベームはフルートに均等な大きさの12の穴をあけ現代に続く機械化された現代の金属フルートが開発されました。しかし18世紀の人々は、調性によって色合いが変わることこそに面白さを感じていました。そのため、当時の曲集は、様々な調性の曲を6曲まとめて出版するのが一般的でした。とはいえ、不安定要素の強い音を多数含んだ調を演奏することは、まだまだ技術上非常に困難だったので、バロック時代においてはシャープ、フラットが3つ以上含まれる調はめったに作られませんでした。そのような状況の中、12の異なる調性を用いた曲を出版したテレマンのファンタジーはかなり野心的であったと思われます。

また無伴奏というのも当時としては非常に野心的です。バッハのヴァイオリンのための無伴奏パルティータのようなあまりに有名で、あまりに素晴らしい曲が残されているため、他にもいろんな作曲家が無伴奏の曲を書いたのでは思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、無伴奏の曲を作るということはバロック期においては非常に稀なことで、ドイツ以外の国ではほとんど見られません。

ではなぜ、バッハやテレマンのようなドイツ人は無伴奏の曲を書いたのでしょうか。ここから先は完全に私の私見で、何の根拠や証拠がある話ではありません。ドイツ・バロックを多く演奏してきた私のただの経験的な推測ですが、それはドイツ人の「遊び心」だと思います。

通常、バロックでフルートのソロ・ソナタを演奏する時は、フルートが主旋律、チェンバロの左手とチェロなどの低弦楽器が通奏低音と呼ばれるバス・ラインを演奏し、チェンバロの右手が数字で示された和音を即興的に演奏します。つまり最低3人の演奏家がいて初めて一つのアンサンブルが完成します。それをたった一人ですべて演奏するためには、主旋律とバス・ラインと和音という大事な三役を一人で担わなければいけません。どうしたら3人分の仕事を1人でうまくできるようになるかということにあえて挑戦すること、そして楽器の限界に挑むことにドイツ人たちは魅力を感じたのではないでしょうか。

ゲルマン系のドイツ人は昔から物事を観念的にとらえる傾向が強く、音楽が神からの賜りもので、数学や宇宙と密接なつながりを持ったものだ、という中世以来の考え方がまだまだ強く根付いていました。歌心のイタリア人、ダンスのフランス人とは違い、抽象的な「音」というもの自体で遊ぶことの面白さを、ドイツ人は楽しんでいたのかもしれません。もともと対位法音楽は、神が作った天体の動きを地上で再現するための道具でした。フーガなど対位法の音楽を一人で演奏するファンタジーは至高の音のパズルといってもよいかも知れません。

前田 りり子(Liliko MAEDA バロックフルート)


モダン・フルートを小出信也氏に師事。
高校2年の時、全日本学生音楽コンクール西日本大会フルート部門1位入賞。
その後バロック・フルートに転向し桐朋学園大学古楽器科に進学。
オランダのデン・ハーグ王立音楽院の大学院修了。
有田正広、バルトルド・クイケンの両氏に師事。
1996年、山梨古楽コンクールにて第1位入賞し、1999年、ブルージュ国際古楽コンクールで2位入賞(フルートでは最高位)。
バッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ、ソフィオ・アルモニコなど、各種演奏団体のメンバーとして演奏・レコーディング活動をしているほか、日本各地でしばしばリサイタルや室内楽コンサートを行っている。
また2006年には単行本「フルートの肖像」を東京書籍より出版し、執筆活動にも力を入れている。
現在、東京芸術大学、上野学園大学非常勤講師。
前田りり子の公式ホームページは「りりこの部屋」で検索。