東京学芸大学教授の清水和高先生に執筆していただきました。

※この記事は2021年に執筆していただいたものです。

第2回

夜明け

では、これよりサン=サーンスの生涯に沿ってフルート作品を紹介していきますが、今回はパリ音楽院入学から卒業後に発表したフルート、クラリネット、ピアノのための『タランテラOp.6』まで、つまり13歳から22歳までのお話をいたします。

パリ音楽院入学。わが師は図書館!!?

前回、神童サン=サーンスが飾った鮮烈なデビュー・リサイタルについてお話ししました。師スタマティは、この機を逃さず一気に神童として売り出すことを訴えましたが、更なる高みを目指すために、今はしっかり勉強すべきという母親との間に軋轢を生み、師弟関係はやがて断絶することとなります。

サン=サーンスは13歳になると、師スタマティからパリ音楽院オルガン科教授フランソワ・ブノワを紹介され、先ずは聴講生として在籍し、1849年1月16日正式に入学を許可されます。ここでなぜ花形のピアノ科ではなくオルガン科を選択したのかという疑問を持ちます。それが本人や家族の意向なのかまでは証言が無いので分かりませんが、もしかしたらコンサートピアニストとして生き抜いていくより、より将来が保証されるオルガニストを目指す方が堅実と考えたのかもしれません。

新たな師ブノワは、且つてローマ大賞まで受賞し、半世紀もの間パリ音楽院オルガン科教授として君臨した人物ですが、サン=サーンスは後に「皆から親しみを持ってペール・ブノワ(父ブノワ)と呼ばれる素晴らしくチャーミングな人物」「教師としては優れていたが、オルガニストとしてはごく凡庸」と述懐しています。

ジャック・アレヴィ(1799-1862)

15歳になるとオルガン科に籍を置きながら作曲科のジャック=フロマンタル・アレヴィのクラスにも在籍します。アレヴィは1835年のグランド・オペラ『ユダヤの女』によって国際的な名声を勝ち得たフランス人作曲家ですが、そのアレヴィのことさえも「彼は時間のある時にしか来ず、自分のクラスを酷くおざなりにした」と否定的にみており、「レッスンが休講となると私は図書館に行き自分の教育を補完し、信じられないほど新旧数多の音楽をむさぼるように吸収した」と述べています。

結局、サン=サーンスはスタマティ、ブノワ、アレヴィの3人に師事しましたが、真に師と呼べる人物は居なかったのかもしれません。

後にサン=サーンス自身はフォーレを育成し、生涯の友としてまるで家族の様な関係を築きます。1905年愛弟子フォーレがパリ音楽院院長になった時、執務室に飾られた師サン=サーンスの胸像に対し、「自分の胸像を置くのにふさわしい場所、私が学んだ図書館に置いて欲しい」というサン=サーンスの言葉が残されています。サン=サーンスを広大な世界へと誘い、その礎を築かせたのは、パリ音楽院の図書館だったのかもしれません。

サン=サーンス 初めての挫折と冒険

1851年、パリ音楽院オルガン科プルミエ・プリを受賞し卒業すると、翌年ローマ賞に挑戦します。ローマ賞は大賞を受賞すると2年間ローマに留学を許可される作曲家にとっての登竜門ですが、結局サン=サーンスはいかなる賞も取ることができず、人生初の挫折を味わうこととなりました。雪辱を期し次にローマ賞に挑戦するのが12年後の1864年ですから、この挫折がサン=サーンスに非常に大きなインパクトを与えたことが想像できます。

1852年、17歳のサン=サーンスはサン・メリ教会のオルガニストとして活動を始めますが、翌1853年12月18日『交響曲第1番 変ホ長調 作品2』をセゲールの指揮、聖セシリア協会のパリ公演で発表します。

サン=サーンスはこれを「冒険」と述べていますが、作品の提出にあたり、もしフランス人であり未だ無名の自身の名前が作品に記されていれば、日の目を見るまでもなく委員会で不採択にされてしまいます。そのためサン=サーンスに好意的なセゲールは一計を案じ「ドイツから送られてきた作者不明の作品」として受理することにより、無事初演まで漕ぎ付けることができたのです。
リハーサルには、既に旧知の仲であったベルリオーズとグノーが居ましたが、まるで巨匠が書いたかのような堂々としたこの作品を聴くなり、これはただ事ではないと察し、この作品について真剣に議論を始めました。この時点ではまだ謎の作品ということですから、サン=サーンスは2人の会話を第3者的な立場で耳にしていたことになります。この時のサン=サーンスの心境、如何ばかりであったでしょうか... 公演は大成功を収め、聴衆に若きフランス人サン=サーンスの作品であることが告げられました。その瞬間、客席に居るベルリオーズとグノーは恐らくこう叫んだと思われます。「お前か!!」と。
劇的な初演となりましたが、その翌日、興奮冷めやらぬ先輩格のグノーから「あの場所に立ち会えた喜びをもう一度あなたに伝えたい。あなたは1853年12月18日の日曜日、偉大な巨匠となることがあなたに義務付けられたことを記憶してください。あなたの忠実なる友 Ch.グノー」という熱烈な手紙が届きます。

シャルル・グノー(1818-1893)

この『交響曲第1番』は現在も聴くことができます。どことなくシューマンやメンデルスゾーン風でありドイツの模倣ということは否めませんが、1853年時点でフランス人がこのような本格的な交響曲を発表すること自体が挑戦的であり、グノーはそこを称賛したのだと思います。手紙を送ったグノー自身も翌1854年、36歳にして初の交響曲を発表しますが、更にそのグノーの作品に感銘を受けた16歳のビゼーもまた、翌1855年に交響曲を作曲しこれに続きます。

長らく不毛であったフランス人による交響曲は、サン=サーンスが口火を切ったといえます。

その後続けてサン=サーンスは、1856年にフランス・ボルドーの聖セシル協会作曲コンクールに『首都ローマ』と副題が付く交響曲で応募し優勝します。この作品になぜ「ローマ」という副題を付けたかについては言及がありませんが、恐らくローマ大賞落選に対する雪辱の意図が想定されます。この交響曲は翌1857年2月にパリで初演され、その後6月10日ボルドーで自身の指揮による再演が行われます。

ワインの一大産地であるこのボルドーは、近代フルートの父ポール・タファネルの出生地でもあります。サン=サーンスがボルドーを訪れた年の1月には、既に12歳のタファネルがデビュー公演で2曲のオペラ・ファンタジーを演奏し、新聞紙上を賑わしていました。この時、2人の出会いがあったか否かについては、双方の言葉として残されていない為定かではありませんが、その後、サン=サーンスとタファネルは、生涯にわたっての重要な演奏パートナーとなります。

サロンで腕を磨く

サン=サーンスは、まさにフランスを代表する作曲家として後世に名を残しましたが、その「フランス」は、「ドイツ」をみることで深く知ることが出来ます。

フランスの戦争史を一覧にすると、1870年まで息つく間もなく戦争を繰り返してきたことが分かりますが、そのなかでもプロイセン(その後のドイツ帝国)は常に敵国でした。

ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)

当時、音楽家が自分の腕を磨き、名を馳せる場にサロンというものがありました。サン=サーンスは音楽院卒業後、様々なサロンに出入りしますが、そのひとつにロッシーニ邸のサロン「土曜の音楽の夕べ」があります。音楽家として巨星ロッシーニに認められることは、その後の音楽人生をも左右する程の大きな意味をもつことから、誰もが入会を熱望する人気サロンでした。ロッシーニは音楽家であると同時に美食家、色男、チャーミング、トリュフ探索用の豚を飼育した人…などなど、とにかく只者ではない人物なのですが、才能のある若い音楽家に対し惜しみなく助力を与えるジェントルマンでもありました。

サン=サーンスは20代に入ると、共通の知人であるヴィアルド夫妻を介し、43歳も年上の老ロッシーニを紹介されます。その時の様子についてサン=サーンスは「ロッシーニはアイデアに対し非常な興味を示し、柔軟性をもつ人物」「オペラ座フルート奏者のルイ・ドリュスと、クラリネット奏者のアドルフ=マルト・ルロワの為にデュオを書き、私の音楽会で演奏するようお願いしてみないか」と提案されたことを明かしています。

夜明け

1857年、その話は現実のものとなります。『タランテラ』というタイトルをもったこの作品は、作曲者名が告げられないままドリュスとルロワ、そしてサン=サーンスのピアノにより演奏されました。

演奏が終わると、疑いもなくロッシーニの作品と信じる聴衆は、傑作誕生に惜しみない拍手を送りました。終演後ロッシーニは、先ずサン=サーンスをダイニングルームに連れて行き、近くに座らせ、逃げられないように手を握りしめます。
ロッシーニは、行列を成す出席者から口々に「さすが巨匠!!」「なんて傑作なんだ!!」など絶賛の言葉を浴びます。そして列が途絶えた頃合いを見計らい、ロッシーニは一同に対し次の様にスピーチします。「私はあなた方のご意見にはまったく同意するのじゃが…」「実は…この作品は私のものではなく、ここに居る紳士が書いたんじゃよ」とサン=サーンスを指さしたのです。そのとき、みなの驚きは如何ばかりであったか... 。まさに、選ばれし巨匠としての道を歩み始めるサン=サーンスの夜明けを告げた瞬間といえます。

ロッシーニのサン=サーンスに対する好意は美談として素直に感動を覚えますが、先にも述べたようにロッシーニは只者ではありません。あまり知られてはいませんが実は演出家としても百戦錬磨の強者なのです。

例えばロッシーニの後に一世を風靡したマイアベーアがいますが、その成功は自身の力量のみで勝ち得たものではなく、ロッシーニが様々な手を使い導かれた成功なのです。そのことを考えると、このサロンにおけるロッシーニの好意も、もう少し深読みする必要がありそうです。

ここでロッシーニが用いたトリックについて、私なりの2つの推理を述べたいと思います。

清水探偵による2つの推理!!?

@なぜオペラ座団員ドリュスとルロワに??

フルートとクラリネットのデュオというのは現在においても珍しい編成ですが、ロッシーニが出会って間もないサン=サーンスに対し、この2人のオペラ座団員の名を出したことに、私は意図を感じます。 サロンで成功を収めた『タランテラ』は、その後間髪おかずオーケストラ伴奏用にアレンジし、同ソリストによる再演を行っています。まるでコンチェルタンテに相応しい魅力的な作品として生まれ変わったこのオケ版は、ロッシーニがオペラ座に繋がる2人を巡り合わせた故に誕生したといえます。このタランテラ編曲で自信を得たサン=サーンスは更に、翌1858年に『ピアノ協奏曲 第1番』と『ヴァイオリオン協奏曲 第2番』(出版の順で2番とされていますが第1作目)、59年には『ヴァイオリン協奏曲 第1番』と立て続けに名作を生み出していきます。フランス人による協奏曲という分野においても、サン=サーンスは先駆的な役割を果たしましたが、後世に残るコンチェルトの数々は、1857年のタランテラ編曲が契機となったとも考えられます。 ロッシーニはサン=サーンスと出会った瞬間、器楽作曲家としての資質を見抜き、敢えてオペラ座奏者の名を借りることによって、その道を切り開くための橋渡しをした。その様にみることもできるのではないでしょうか。

ルイ・ドリュス(1813-1896)

Aデビューの方法

『タランテラOp.6』は、作曲者名を伏せたまま演奏されましたが、この方法についてみなさんは何か思い当たりませんでしょうか? 先に述べた『交響曲第1番』初演で、セゲールが行った同じ手法をロッシーニは用いたのです。 恐らくロッシーニはその出来事を事前に耳に挟んでいたと思われますが、敢えて同一の手法をこの夜会で再現することにより、聴衆は「あ〜、あの時の若者か!」と紐づけされます。ロッシーニはサン=サーンス第2のデビューをより劇的に飾り立てる為のレトリックとして、この手法を用いたことが考えられます。 以上2点が私の推理でしたが、もしロッシーニがこれ等のストーリーをイメージした上で事を運んだとすると、演出家として恐ろしき力量をもったロッシーニの一面を垣間見ることができます。

タランテラOp.6

(図1)『Antidotum tarantulae(毒グモの解毒剤)』

タランテラは、南イタリアの小都市ターラントにその起源があり、毒蜘蛛タランチュラに刺された人が、その毒を抜くために狂ったように踊ったことから始まります。その後、激しく踊り続ける特殊な病気自体のことも「タラント病/タランティズム」と呼ばれるようになりました。17世紀の学者アタナシウス・キルヒャー(1601〜1680)は、タランチュラの毒について述べた幾つかの研究書を残しましたが、その中に「毒グモの解毒剤」(図1)の口絵があります。イタリアターラントに生息するタランチュラの絵の上に書かれた楽譜は、タランチュラに刺された人間に対する解毒用の音楽ということになります。
皆さんは毒蜘蛛に刺された時、医者にこのような処方箋を出されたら目が点になり、即刻主治医を変えると思いますが、血清など解毒薬がない時代には、踊るしか手は無かったのですね。いずれにしろ、後に音楽作品として発展をみせる「タランテラ」の源泉がここにあります。
私は情報がある限りのタランテラ作品を一覧にしてみましたが、オベールとロッシーニの2つの声楽作品にある起点がみてとれます。 オベールのオペラ『ポルティチの唖娘』第3 幕のタランテラは1828年、ロッシーニの歌曲集『音楽の夜会』8曲目「踊り」のタランテラは1830〜35年にそれぞれ書かれました。 この2つのタランテラに共通する点として、拍子は6/8拍子、忙しなく動き回る8分音符の主題(譜例1)と、まるでスキップをするような陽気なリズム(譜例2)、この3点があります。忙しなさの中にもどことなく素朴な陽気さを感じさせるこの2作品は、情緒的な作品といえます。

オベールとロッシーニの2作品は、発表されて間もなく、リストとショパンによりピアノ独奏用作品に編作されます。19世紀前半のサロンでは、オペラや民謡などのいわゆるヒット・ソングを華やかに飾り立てた幻想曲や変奏曲がもてはやされましたが、この編作もその一環と思われます。そしてそのショパンの作品もまた、その後カロル・リピンスキーによりヴァイオリン独奏用、4手のピアノ作品用に編作されます。このように『タランテラ』は、オベールとロッシーニの作品が起点となり、特に器楽作品として流行を広げ、後のヴィエニャフスキーやサラサーテなどの名曲へと繋がります。
『タランテラ』は、サロン文化やヴィルトゥオーゾ時代の時流に乗り、一つの性格的小品として確立しますが、その多くは超絶技巧の代名詞のような作品です。私は以前、フルート用にアレンジされたサラサーテの『序奏とタランテラOp.43』に挑戦したことがありますが、「もう鬼!悪魔!!#%」と叫びたくなるほどの難しさで、腱鞘炎になりかけ挫折したことがあります。 ちなみにこの「悪魔」ですが、1830年代のパリではマイアベーアのグランド・オペラ『悪魔のロベール』の大ヒットや、怪奇小説やファンタジー文学が流行するなど空前の「悪魔ブーム」というものがありました(日本でも1990年代にオカルト・ブームがありましたが...)。この「悪魔」という言葉は、しばしばパガニーニやリストなど神がかった演奏に対し「悪魔的」と用いられましたが、ヴィルトゥオーゾとしての『タランテラ』もまた「悪魔的」作品といえます。

サン=サーンスのタランテラは、決して超絶技巧路線の作品ではありませんが、音楽的情緒を重んじる作品としてロッシーニと同一線上にあるといえます。冒頭 pp で奏でられたオスティナート・バスは段階的に音を強め、中間部直前には ff まで盛り上がります。これはロッシーニの得意としたいわゆる「ロッシーニ・クレッシェンド」を意識し書いたといえます。イ長調に転調した中間部の平和的な歌もどことなくロッシーニ的です。また短前打音によって強調された同音反復もこの作品の特徴となっていますが、まるで毒蜘蛛の毒に犯された人間の奇怪な動きのようで、滑稽さすら覚えます。(譜例3
この作品は7分程度の短い小品ですが、その後ドリュスのフルート(後にタファネル)との共演で、生涯にわたって幾度も再演を重ねるサン=サーンスお気に入りの作品となります。

次回は、国民音楽協会設立後に生み出された『ロマンスOp.37』をご紹介いたします。

サン=サーンス/タランテラOp.6

清水 和高

東京藝術大学にてフルートを金昌国、細川順三各氏に師事。ジュネーヴ音楽院にてマクサンス・ラリュー氏に師事しプルミエ・プリを受賞し修了。これまで日本木管コンクール入選の他フランス、イタリアのコンクールにて入賞する。帰国後は世界各国の音楽祭や大学より招聘を受け、マスタークラス、公演を行う。2019年、マクサンス・ラリュー氏と世界初モーツァルト オペラ デュオ全曲レコーディングを行い、フランスSkarboよりリリースする。2012年16年にはイタリアで開催されたセヴェリーノ・ガッツェローニ国際フルートコンクール審査員を務める(第5回は審査委員長)。
現在、東京学芸大学教授、日本管楽芸術学会会員。