東京学芸大学教授の清水和高先生に執筆していただきました。

※この記事は2021年に執筆していただいたものです。

第5回

真価が認められた日

1886年は、サン=サーンスにとって挫折と栄光を味わうまさに波乱の年となります。
第5回は、その波乱の中で生み出された『動物の謝肉祭』と、翌87年作『デンマークとロシア民謡によるカプリスOp.79』についてお話し致します。

巨星ワーグナー墜つ!

現代を生きる私たちにとって、演奏会で怒号が飛び交うといったことは想像し難いことですが、19世紀後半に大きなうねりとなったワグネリズムには、そのような特異な一面がありました。

1883年2月13日、ヨーロッパ中を席捲した巨星ワーグナーが亡くなると、その死をもってワグネリズムの炎は沈静化するどころか、一層の激しさを増します。

そんな中、サン=サーンスは『ハーモニーとメロディー』と題された1冊の本の編纂を開始し、その序文を以下の文章で結びます。
私はワーグナーの作品を、心底尊敬している。
優れていて力がある、それだけで十分なのだ。
私はワグネリアン教に属したことはないし、これからも属さないだろう。
凡そハーモニーとメロディーに関係がないワーグナーを論ったような序文ですが、1885年8月初旬に刊行されると、この著書がドイツ国民の逆鱗に触れ、翌年のドイツ・ツアーは大波乱となります。

辛酸を舐めるサン=サーンス!

北フランス、アラスに始まるコンサート・ツアーは、1886年1月22日にベルリン・フィルハーモニー協会の公演を迎えます。

サン=サーンスが舞台に登場すると、聴衆は待ち構えていたかのように叫び声、口笛、侮辱する言葉などを激しく浴びせかけ、ついには警察が介入する事態に至ります。サン=サーンスは演奏をやり遂げ、続く公演先カッセルへ向かおうとしますが、カッセル王立劇場の支配人から「サン=サーンスがドイツの音楽や芸術に対する敵対的な態度をとる限り、彼の名前を記したプログラムへの参加を一切拒絶する」と書かれた手紙が届き、ドイツ国内の公演先が軒並みキャンセルとなります。

ドイツでのツアーを断念したサン=サーンスは次の公演先プラハへ向かいますが、ここでもその余波を受け公演の延期が告げられます。しかしドイツとは状況が異なりフランスに親和的なチェコ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)は、サン=サーンスに敬意を払い、世界で最も美しい劇場のひとつといわれる国立劇場で代替公演を用意します。
急遽スケジュールが変更になったことで、サン=サーンスは公演準備の合間を縫い、予てより交流のある小都市クルディム(チェコ語:フルディム)を表敬訪問し、1886年2月14日に公演を行います。

クルディムへ

クルディムの街並み

クルディム(現在のチェコ)とサン=サーンスとの関係は4年前に遡ります。1882年1月22日のプラハ初公演の際、サン=サーンスはクルディム文学協会から立派な花輪が贈呈され、クルディムからの派遣団と友好関係を築いていますが、今回の表敬訪問はその縁によるものと思われます。

このクルディムと、名作『動物の謝肉祭』誕生との関連を指摘した解説が多くみられますが、この件については、後半の清水探偵で詳しく述べたいと思います。

師リストとの別れ

最晩年のリスト(1886年3月)

帰国したサン=サーンスは、パリ逗留中のリストと再会します。15、6歳の頃に出会い、生涯かけてその背中を追い続けたリストはこのとき74歳。

そのリストと3月23日、ムンカーチ・ミハーイ邸のソワレでひと時を過ごしますが、ヴィアルドも同席していました。恐らくこのソワレで『動物の謝肉祭』の話題が上ったことが推測されますが、リストの強い要望により4月2日、ヴィアルド邸で再演がセッティングされます。
ちなみに『動物の謝肉祭』は、生前の出版、再演が禁じられた作品として知られていますが、ヴィアルド邸の再演は非公開、非公式によるものでした。

サン=サーンスにとって良き師であり良き理解者でもあったリストは、その3か月後、生涯を閉じます。

サン=サーンス、真価が認められた日

5月19日、サン=サーンスは交響曲第3番 ハ短調 Op.78《オルガン付き》をロンドンのセント・ジェームズ・ホールで初演し、翌1887年1月9日にはパリ音楽院演奏協会でパリ初演を迎えます。

サン=サーンス自身「こんな真似は二度としない」というほど全てをつぎ込んだこの交響曲に対し、新聞紙上では「これほど熱狂的な拍手を送っているのを見たことがない」「このような価値のある交響曲がパリで聴かれたのは、メンデルスゾーン以来ではないか」と評されます。

サン=サーンスに批判的な評論家やワグネリアン如何に関わらず、有無をも言わさぬ圧倒的成功を目の当たりにしたフランス国民が、ついにサン=サーンスの真価を認めたのです。

国民音楽協会脱会

1871年2月にサン=サーンスが中心となり設立した国民音楽協会は、「現在生きているフランス人作曲家の作品に限定」「友愛的に、献身的にお互いを助け合うこと」などが確認され設立されましたが、次第に会則に反発を覚える若手との間に軋みが生じ始めます。

1886年11月21日に開催された総会で、国外の作曲家の作品をも取り上げるという意見が採択、セザール・フランクが会長に推薦されると、サン=サーンスは追われるように国民音楽協会を脱会します。

ロシア公演

アレクサンドル3世とマリア・フョードロヴナ

交響曲第3番《オルガン付き》パリ初演から始まる翌1887年は平穏な年となります。4月、サン=サーンスはフランス赤十字社の支援によるロシア公演に招待され、フランスが誇る管楽器の名手タファネル、クラリネットのシャルル・トゥルバン、オーボエのジョルジュ・ジレの共演者とともに、サンクトペテルブルクで7回の公演を行います。

4月21日、このツアーのために用意していたフルート、クラリネット、オーボエとピアノのための『デンマークとロシア民謡によるカプリスOp.79』を初演し、ロシア皇帝に嫁いだデンマーク出身の皇后マリア・フョードロヴナに献呈します。
演奏時間12分程度のこの作品には、華やかな序奏の後に現れる3つのアリアにそれぞれデンマークとロシアの歌が用いられていますが、母国の旋律が現れるたびにお互いを見つめ、微笑み合う皇帝と皇后の姿が目に浮かぶようです。さらに各テーマに続くヴァリエーションには、各国のテーマが重なり合う瞬間がありますが、これは国と国の繋がり、つまり「友好」が現わされたとも読みとれます。

前年1886年はドイツ騒動にはじまり国民音楽協会脱会など翻弄された年でしたので、サン=サーンスはこのカプリスに、融和や平和への想いを込め作曲したのではないでしょうか。

清水探偵、クルディム説に挑む!

シャルル=ジョセフ・ルブーク(1822-1893)

では、『動物の謝肉祭』に戻ります。 現在小学校の音楽の授業でもよく取り上げられるほどポピュラーなこの作品には、日本語で書かれた多くの解説をみることができますが、「クルディムで作曲」「ルブーク恒例の演奏会で初演」「クルディムの謝肉祭(マルディグラの日)で演奏」といった記述が散見されます。

つまり『動物の謝肉祭』の誕生にクルディムが深く関わっていることが述べられているのですが、当時の新聞を紐解くと、フランスの新聞に公演記事があるのですが、プラハの新聞にはその痕跡をひとつとしてみつけることができず、そもそも作曲や初演地はクルディムだろうか?といった疑念を抱きます。
今回の清水探偵は、クルディムと『動物の謝肉祭』の関係について解き明かしたいと思います。





@サン=サーンスの行動履歴について

先ずはサン=サーンスの行動を逐一報じているプラハの新聞Dalibor紙を中心に、プラハ入り後のスケジュールを整理してみましたので、軽くお目通しください。
  • 2月1日頃
  • プラハ入り
  • 2月9日付
  • デュラン宛の手紙「今度のマルディグラ公演のために大型の作品(動物の謝肉祭)を準備しているところです…出版せず遺作にするつもりです。」
  • 2月13日
  • Čeňka Mieka氏(国立劇場公演の興行者)のサロンを視察
  • (13 or 14日)
  • プラハ⇒クルディム
  • 2月14日
  • クルディムの劇場で演奏
  • 2月15日(夜)
  • クルディムからプラハに戻り、駅で国立劇場公演のプログラム決定と手配
  • 2月19日
  • 国立劇場公演 19時開演 指揮とピアノ独奏
  • 2月21日
  • プラハ⇒ウィーン
  • 2月23日
  • ウィーンからプラハのDalibor紙宛てに手紙
  • (日付不詳)
  • サン=サーンスを囲んだ盛大なレセプション開催
  • (日付不詳)
  • ウィーン⇒オーストリアの小さな町(クルディム?)この町に数日間籠り『動物の謝肉祭』を書き上げる。
  • 3月6〜9日
  • 謝肉祭の期間
  • 3月9日(火)
  • 『動物の謝肉祭』初演 於:ルブーク恒例の演奏会

スケジュールからお判りのように、サン=サーンスは2月14日に一度クルディムを訪れていますが(前半「クルディムへ」参照)、この訪問と『動物の謝肉祭』には関連が無いと思われます。

A本当にクルディムで作曲?

日本語の多くの解説には「クルディムで作曲された」とありますが、基本となる資料(ボヌロ、1922)には「オーストリアの小さな町」としか記されておらず、それがクルディムを指すのかまでは示していません。西洋の主要文献は、おしなべてボヌロに准じた記述をしているようですが、「小さな町」を特定できるこれ以上の資料が無いため、作曲地については断定できないといえます。

ただ、もし作曲地であるとすれば、ウィーンから約250キロもの距離にあるクルディムに再度舞い戻ったことになり、やや行動的な不自然さは覚えますが、サン=サーンスに親和的な同地の厚意により、落ち着いて作曲できる場所を提供されたことが考えられます。

Bルブーク恒例の公演とは?

「ルブーク恒例の公演」を多くの方は、で、同地に所縁のあるルブークが開催している公演と理解しているのではないでしょうか。

初演地を知るためには、先ずルブークという人物と「恒例の公演」自体について正しく知る必要があります(人物については注をご覧ください)。

ルブークの恒例公演は、恐らく1874年2月17日の公演(Herzホール:パリ)が始まりと思われますが、以降マルディグラの日(謝肉祭の最終日)同ホールを拠点とし継続しています。つまり「ルブーク恒例の公演」とは、を意味するのです。

C本当にクルディムで初演?

クルディム初演説を裏返す決定的証拠を、Le Menestrel紙(3月7日号)にみつけました。そこには、サン=サーンスが少し体調を壊しながらもドイツ・ツアーから帰国したことが記載されています。つまり謝肉祭期間の3月7日にはパリに居ることから、クルディムの謝肉祭で初演されたという説は否定されます。

パリの謝肉祭で演奏される作品を、帰路の途中に立ち寄ったオーストリアの小さな町(クルディム?)で作曲し、帰国後にパリで初演したということが真相のようです。

最後に

では、最後に『動物の謝肉祭』の演奏ポイントについて説明致します。

このようなエンターテイメント性の強い作品は単に上手に演奏するだけではなく、それぞれの楽曲の特徴を強調する、若者風にいえば「キャラが立つ」ことがポイントです。タファネルは再演の際、動物の被り物をして出演したようですが、ホールに居ながらにして楽しい動物園に誘う、そんな演奏ができたら素敵です。

1曲目「序奏と獅子王の行進曲」冒頭、いきなり空虚5度(第3音を抜いた完全5度)のトレモロから始まりますが、先ずはこの空虚な響きで聴き手を一瞬で不思議な空間に誘い、その後憎々しいライオンが目の前にヌっと現れます。時折差し挟む百獣の王ライオンの雄叫びガォ〜〜!!で、息つく間を与えず聴衆を震え上がらせて下さい。

2曲目「雌鶏と雄鶏」は、お互いの主張をまったく譲らない頑固な夫婦!?

3曲目「騾馬(ラバ)」は愚直さをもつロバと馬をかけ合わした交雑種。足は速いが能天気なラバがただただ突っ走る。自分自身行き先も目的も分からずに...

4曲目「亀」をひとことで表すならば「運動会の音楽のスロー再生」。 パロディーの名人にはオッフェンバックがいますが、サン=サーンスも負けてはいません。なんとサン=サーンスは、オッフェンバックの『天国と地獄』(地獄のオルフェ)をメロディーはそのままに、テンポだけを変えるといった手法を用いたのです! 当時人気絶頂であったオッフェンバックを、パロディー返ししたこの「亀」。初演時には抱腹絶倒だったはず 。

ちなみに、小学校の運動会で広く使用されているこの「地獄のギャロップ」、実はキャバレーなどで踊られるフレンチカンカンの乱痴気騒ぎを表した別名「カンカン」などとも呼ばれる作品。カンカンを知っているお父さんは何て不謹慎な!と、それこそに怒るのでは!?

5曲目「象」のポイントは「ギャップ萌え」です。象がノッシノッシと歩く様を描いたサン=サーンスのオリジナル・メロディーに続き、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』の中の「妖精の踊り」、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』の「スケルツォ」の2曲が現れます。 この作品は、象が妖精?といったギャップこそサン=サーンスが求めたもの。つまり、達者に演奏するより、むしろ冷や汗をかきかきブキッチョに演奏すべき曲なのです 。

先は長いので端折りながら説明します。
7曲目「水族館」は人気のないシ〜ンとした水族館の片隅に置かれた水槽に、ときおりブクブクッと泡がたつ様子。この「ブクブクッ」に、静寂を破ってしまった申し訳なさ、羞恥心といった味わいを感じ取れればなお素晴らしい。

10曲目「大きな鳥籠」のVolièreという言葉には「おしゃべりの溜まり場」といった意味もあるようです。甲高い声、早口で一方的にしゃべり続ける○○さんといった感じでしょうか。最後のクロマティックのディミヌエンドがきれいに決まれば、「失敬、今のは無かったことに...」と姿を消していく○○さんの幻影がみえるかも。

11曲目「ピアニスト」はそもそも動物でしょうか(広義的には動物ですが...)? 一心不乱に働く人を「働きバチ」や「エコノミック・アニマル」と称することがありますが、サン=サーンスはピアノに向かってひたすら練習するピアニストを動物に分類しました。

現在では意図的に縦の線をずらし、ふらふら弾く演奏が主流となっているようですが、このアイデアはサン=サーンス没後に出版されたデュランの初版譜の注意書き「演奏者は、初心者の如くぎこちなく(編集者注)」が元となっているようです。これがもし作曲者の指示であればサン=サーンスの名前を書くはずですが、「編集者」つまりデュランの言葉として記しています。 直筆譜にはこの指示がなく、且つ譜面が整然としていることから、サン=サーンスは、むしろ機械的な正確さと無神経なほど煩い音で練習する無機質な演奏を想定していたのかもしれません。
いずれにしろ上手なピアニストが初心者風に演奏することは意外と難しいもの。

良い方法を思いつきました! 右手と左手を逆に弾くとか...

白鳥

13曲目「白鳥」はサン=サーンスの完全なるオリジナルで、諷刺ではありません。ただただ美しく、そして美しく。

14曲目「終曲」で求められるのはまさにどんちゃん騒ぎ。まるで吉本新喜劇のような。最後にすべての出演者がそろい踏みし、どんちゃん騒ぎでフィナーレを迎える場面は参考になります(ちなみに私はドリフ派ですが...)。
この組曲中フルートが関係する作品は「水族館」「大きな鳥籠」「終曲」の3曲ですが、「大きな鳥籠」がフルーティストにとっての災難、もとい最難関。
私自身何度か全曲演奏をしたことがありますが、「大きな鳥籠」に至るまでの精神状態がそれはそれはもう...

デンマークとロシア民謡によるカプリス Op.79

清水 和高

東京藝術大学にてフルートを金昌国、細川順三各氏に師事。ジュネーヴ音楽院にてマクサンス・ラリュー氏に師事しプルミエ・プリを受賞し修了。これまで日本木管コンクール入選の他フランス、イタリアのコンクールにて入賞する。帰国後は世界各国の音楽祭や大学より招聘を受け、マスタークラス、公演を行う。2019年、マクサンス・ラリュー氏と世界初モーツァルト オペラ デュオ全曲レコーディングを行い、フランスSkarboよりリリースする。2012年16年にはイタリアで開催されたセヴェリーノ・ガッツェローニ国際フルートコンクール審査員を務める(第5回は審査委員長)。
現在、東京学芸大学教授、日本管楽芸術学会会員。