エッセイ

フルートで料理

5.アバウトとファジー

  • 何事にも手順というものがある。料理の上手下手は、結構この手順が左右する。その日の最終的なメニューを頭の中に作り上げておかないと、当然この手順も決まらないが、だからといってその最終にこだわり過ぎると、今度は自由さがなくなってしまう。

    余りにも画一化された生活を強いられると、人間誰しもファジーの感覚を求めるようになるのだが、本来規格の中にきちんとはまった人達が、その中に僅かばかりの自由さを何とか見つけ出して、それを楽しもうというのがファジーなのだと思う。

    料理は決してアバウトになってはいけないと思う。手順と同じように、何事も基本が大切なのだが、基本から脱皮して応用に移るときが難しい。基本をしっかりと守った上でのファジーの感覚を、最初からのアバウトの感覚と取り違えてしまうことが多いのだ。

    料理の名人達は、まるで適当な匙加減でやっているかのように振舞う。これは、彼等が料理の基本を如何にその苦しい修業の道で身体に叩き込んできたかということの証しなのである。逆に、基本の味についてうるさく匙加減を講釈するのも、また、彼等である。
  • 挿画
匙加減を身体で覚えるのはとても難しい。 “料理人は味覚に敏感だから・・・” と思うかも知れないが、実は人間皆平等なのだと思う。基本が本当に基本的に理解できていれば、その基本を元にして、アバウトではないファジーな味が保証されている。


ところで、音楽にも手順というものがある。さらに、音楽を表現する上での楽器の演奏には、この手順が大きく影響する。自分がどういう音楽を演奏しようとしているのかを頭の中で明瞭にイメージしていないと演奏できないし、イメージだけでも演奏できない。

ある時期、ある期間までは画一化されたトレーニングでも楽器の演奏は成り立つが、その規格の中にきちんとはまった人達が、その中から僅かばかりの自由さを見つけ出す瞬間を見逃してはならない。そこに音楽の愉しみが隠されている。

音楽や演奏は決してアバウトになってはならないと思う。音楽の手順と同様に、奏法に於ける基本が大切なのだが、その基本から応用に移るときが難しい。充分な基礎練習に基づくファジーの感覚を、最初からのアバウトの感覚と勘違いしてしまうことが多いのだ。

名演奏家達は、そんな基礎練習の必要さを感じさせないで演奏する。これは、彼等が奏法の基本を如何に毎日自分の身体に感覚として叩き込んでいるかということの証しなのである。逆に、レッスンで口うるさく基礎練習について講釈するのも、また、彼等である。

基礎練習を身体で感覚的に覚えるのはとても難しい。 “音楽家は耳がいいから…” と思うかも知れないが、実は人間皆平等なのだと思う。基礎が本当に基本的に理解できていれば、その基礎を元にして、アバウトではないファジーな音楽が保証されている。

文:齊藤賀雄(元読売日本交響楽団フルート奏者 東京音楽大学教授)

画:おおのまもる(元読売日本交響楽団オーボエ奏者)