ジョアッキーノ・ロッシーニ
(1792-1868)
当時、音楽家が自分の腕を磨き、名を馳せる場にサロンというものがありました。サン=サーンスは音楽院卒業後、様々なサロンに出入りしますが、そのひとつにロッシーニ邸のサロン「土曜の音楽の夕べ」があります。音楽家として巨星ロッシーニに認められることは、その後の音楽人生をも左右する程の大きな意味をもつことから、誰もが入会を熱望する人気サロンでした。ロッシーニは音楽家であると同時に美食家、色男、チャーミング、トリュフ探索用の豚を飼育した人…などなど、とにかく只者ではない人物なのですが、才能のある若い音楽家に対し惜しみなく助力を与えるジェントルマンでもありました。
サン=サーンスは20代に入ると、共通の知人であるヴィアルド夫妻を介し、43歳も年上の老ロッシーニを紹介されます。その時の様子についてサン=サーンスは「ロッシーニはアイデアに対し非常な興味を示し、柔軟性をもつ人物」「オペラ座フルート奏者のルイ・ドリュスと、クラリネット奏者のアドルフ=マルト・ルロワの為にデュオを書き、私の音楽会で演奏するようお願いしてみないか」と提案されたことを明かしています。
1857年、その話は現実のものとなります。『タランテラ』というタイトルをもったこの作品は、作曲者名が告げられないままドリュスとルロワ、そしてサン=サーンスのピアノにより演奏されました。
演奏が終わると、疑いもなくロッシーニの作品と信じる聴衆は、傑作誕生に惜しみない拍手を送りました。終演後ロッシーニは、先ずサン=サーンスをダイニングルームに連れて行き、近くに座らせ、逃げられないように手を握りしめます。
ロッシーニは、行列を成す出席者から口々に「さすが巨匠!!」「なんて傑作なんだ!!」など絶賛の言葉を浴びます。そして列が途絶えた頃合いを見計らい、ロッシーニは一同に対し次の様にスピーチします。「私はあなた方のご意見にはまったく同意するのじゃが…」「実は…この作品は私のものではなく、ここに居る紳士が書いたんじゃよ」とサン=サーンスを指さしたのです。そのとき、みなの驚きは如何ばかりであったか... 。まさに、選ばれし巨匠としての道を歩み始めるサン=サーンスの夜明けを告げた瞬間といえます。
ロッシーニのサン=サーンスに対する好意は美談として素直に感動を覚えますが、先にも述べたようにロッシーニは只者ではありません。あまり知られてはいませんが実は演出家としても百戦錬磨の強者なのです。
例えばロッシーニの後に一世を風靡したマイアベーアがいますが、その成功は自身の力量のみで勝ち得たものではなく、ロッシーニが様々な手を使い導かれた成功なのです。そのことを考えると、このサロンにおけるロッシーニの好意も、もう少し深読みする必要がありそうです。
ここでロッシーニが用いたトリックについて、私なりの2つの推理を述べたいと思います。