~生誕225年企画~
フランツ・シューベルト
Franz Schubert第1回 ロマン派の音楽の魅力とシューベルトの人物像
<ロマン派の音楽の魅力>
―――演奏会のプログラムにシューベルトやシューマンなどロマン派の作品を取り上げることが多いですね。
そうですね。意識的にプログラムに入れています。ロマン派の音楽が、とっても好きなものですから。ロマン派の前の時代に、古典派の時代がありましたが、古典派とロマン派は違う動きがある。そういった意味も含めて喜怒哀楽というか、人間の感情をそのまま表現でき、自由であること、それがとても魅力です。
―――自由というのは?
自由という言葉が適当かどうか分からないけど、動きすぎると音楽がくさくなってしまう、ちょっとした香りがありながら演奏できると面白いと思います。例えばアゴーギク。最初に時間を使った後は少し前に向かう。その逆もありますが、緩急をつけたりテンポなど微妙に変化させる音楽表現の一つです。それが非常に上手かったのが、僕の最後の先生だったアンドレ・ジョネです。また、ピアニストのワルター・ギーゼキングが演奏するメンデルスゾーンの「無言歌」は、曲を理解した上でメロディが自由で、 左手はテンポを崩しすぎず流れがある。自由奔放に動いているようで、豊かな表現を感じます。
―――「ロマンティック・フルート」のCD(CD-ID:3825)を出されていますね。
以前からロマンティックな作品だけのCDを作りたいと思っていました。ちょうど神戸女学院大学で教えていた時に、ボリス・ベクテレフという素晴らしいピアニストと出会い、一緒に演奏しようと誘ったら、彼もすごく喜んでくれてCDを制作しました。ベクテレフは柔軟性があり、演奏してみると息が合う。だから伴奏合わせは、2、3回だけです。
―――初めて「しぼめる花」の曲を聞いた印象はどうでしたか?
フライブルグへ行ってからニコレ先生のレッスンを受けている時でした。友人のレナーテ・グライス=アルミンが、この曲をレッスンで吹いていたんです。その時、「うわー、良い曲だな。自分もやってみよう」と思いました。とても感銘を受けました。
―――「しぼめる花」を初めて演奏したのはいつですか?
フライブルグにある学校で定期的に演奏会があって、そこで演奏したのが最初だったと思います。確か1970年頃です。
また、最初のCDの「FLUTE RECITAL」を作った時も、そして日本に帰国して最初のリサイタルのプログラムにも、「しぼめる花」を選びました。
―――演奏するときのイメージや影響を受けたことなどはありますか?
「しぼめる花」を演奏するときは、ある意味自分がシューベルトになったような気持ちで演奏できればと思っています。
僕は、シューベルトの晩年の作品『ピアノ・ソナタA-dur (D.959)』や『B-dur (D.960)』、そして『弦楽五重奏曲 (C-dur D.956)』など聴くのが好きで、そういう作品からも影響を沢山受けていることがあります。それと、4手ピアノのための『Fantasy(f-moll D.940)』。この曲が一番好きですね。
―――「しぼめる花」の主題になった、歌曲『美しき水車小屋の娘』について教えてください。
シューベルトがこの曲を書いたときは、当時罹っていた病気が進行し、この曲に自分の人生を照らし合わせています。ある青年が水車小屋の娘に恋をするが、恋敵が現れ失恋し、その苦しみから逃れるために川に身を投げる。そこに安らぎをみつける…まだ少し光を感じます。ところが、最後の最後に書いた「冬の旅」は、彼の体力が衰え、病気がかなり進行した容態を反映しているようで、光が少しも感じられない。まだ「水車小屋の娘」の方が、いろいろなところに望みとか希望を感じるところがありますね。
―――「しぼめる花」の主題の歌曲『美しき水車小屋の娘』より18番目「Trockne Blumen」の歌詞には春を待ち望みながら、もはやそれが得られないという自覚が表現されていますが。
ドイツは四季がはっきりしています。私は子供の頃札幌で過ごしましたが、とっても似ています。春は春、夏は夏、秋は秋、冬は冬で、四季折々の良さがありました。春になると若葉、そして木々が葉を付け、冷たい寒い冬からやがて暖かい春が待ち遠しくて、その移り変わりがとっても希望があったり、温かさがあったり…ドイツの四季は非常に似ていました。
「trocken」って乾いたとか枯れたっていう意味なので、本当は「枯れた花」が正しいかと思います。「しぼんだ」というのは、現在進行形のような形で、またひょっとしたら生き返るみたいな、そんなニュアンスが感じられますね。何とも言い難いところですが、誰か日本の方が、とってもエキゾチックな名前で「しぼめる花」っていう題にしましたが。
ロマン派のフルート作品の中では、最も優れた曲の一つで、後にも先にもこんなに素晴らしい曲っていうのは、そうそうあるわけではありません。特に音楽的にも、テクニック的にも素晴らしいので、難易度の高い難しい曲の一つだと思います。
<シューベルトの人物像>
―――ここからはシューベルトについてお話しいただきました。
シューベルトの人生は非常に短いものでした。1797年にウィーンの郊外で生まれ、1828年、31歳で亡くなりました。生涯ウィーンで活躍した数少ない作曲家の一人です。子供の頃、ハイドンと同じく王家のための聖歌隊に入り、そこでピアノやヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなど習います。そして、12歳の時にベートーヴェンを知ることになり、それ以来、シューベルトはベートーヴェンのことを生涯尊敬し続けました。

「フランツ・シューベルトの肖像」
ウィルヘルム・アウグスト・リーダー
シューベルトは歌曲をとても速く作曲しましたが、器楽曲はベートーヴェンの幻影に振り回されて悪戦苦闘したようです。
このシューベルトとベートーヴェンには共通することがあります。二人とも海を見たことがないんですね。ベートーヴェンの作品に『静かな海と楽しい航海』という曲があるのですが、おそらくベートーヴェンは海の絵か、近くの湖を見てファンタジーを得たんだと思います。

「シューベルティアーデ」(1896)
ユリウス・シュミット

エステルハージ候 ジェリズの別荘(当時ハンガリー領)現在はシューベルト公園
シューベルトは、1818年にエステルハージ候のハンガリーの別荘に呼ばれ、二人の娘にピアノなどを教える音楽教師をしました。シューベルトは、そこでペピという若い女中から梅毒という病気をうつされたようです。この病気は発病まで時間かかります。当時ヨーロッパで爆発的に蔓延していたため、この病気で亡くなった人が多くいます。シューベルトは亡くなる直前に腸チフスに罹り、これが彼の死期を早めたともいわれています。

ヴェルヘルム・ミュラー
(1794-1827)
晩年は(若くして晩年なんですけども)、不治の病による絶望と悲しみ、それと少し回復した時の幾ばくかの希望とか、いろいろな葛藤の中で作曲しました。彼は若さと老い、それから青春と晩年を同時に生きた人です。
シューベルトは私の三分の一ちかくの人生で亡くなり、彼のことを思うと物悲しくなってきますが、彼がもう少し長く生きていたら、他のフルート作品も残してくれたんじゃないか…なんて思います。
シューベルトの音楽は、彼の人格そのものを映し出しています。
シューベルトの作品を演奏する上で、彼の人生や性格を知ることは、非常に重要です。
簡単に彼の人生を語りましたけれども、次回からは、「しぼめる花」の曲について解説をしたいと思います。


西田 直孝(フルート)
桐朋学園大学に入学し、吉田雅夫、斎藤秀雄の両氏に師事。卒業後、ドイツ・フライブルグ国立音楽大学に入学。オーレル・ニコレ氏に師事。同大学在学中DAAD西ドイツ政府奨学金を得る。ソリストとしてダルムシュタット現代音楽祭、グラーツ現代音楽祭などで演奏。卒業後イスラエル・チェンバー・アンサンブルの首席フルート奏者として迎えられる。その後チューリッヒにおいてアンドレ・ジョネ氏に師事。アーガウ州立教育大学講師を経て1976年帰国。
パン現代音楽コンクール1位入賞の他、ロッテルダム・ガウデアムス国際現代音楽コンクール、ロワイアン国際現代音楽コンクール、ミュンヘン国際音楽コンクール等に入賞及び入選。ソロ活動のほか、室内楽奏者としてホリガー、ヘフリガー、ロス・アンヘルス各氏等と共演。協奏曲のソリストとしてベルティーニ、ベリオ、マリナー、小澤征爾各氏等と共演。元神戸女学院大学教授。

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