エッセイ

フルートで料理

7.田舎料理

  • 齢を重ねてきたせいか、油物を敬遠する傾向になった。さっぱり味を求めるようになったから目につくのかも知れないが、最近、 『田舎料理』 という類の看板が多くなってきたような気がする。田舎料理とは、一体どんなものをいうのだろう。

    『あなたの田舎はどちらですか?』 と尋ねたときに、田舎には、田んぼや畑や、広い野原や小川などがあって、背負子をしょった村人達が家路を急ぐ頃には、家々の煙突からは煙がたなびいていなければならないと考える人達が多くなってきたような気がする。

    都会の中でも、東京は異常な都市だと思う。種々雑多な人種が集まってきて、一種のマニュアルだけを頼りに、一見整然とした共同生活を営んでいる。隣人と顔を合わせるどころか、挨拶を交わすこともなく、何年も過ごしてしまうことが少なくないという。

    『田舎料理』 や 『家庭料理』 風の看板が多いのは、そのマニュアルの一端かも知れないが、そんな店で私が味わいたいのは、料理のメニューではなくて、料理そのものの味なのである。料理は音楽と同じように、その人の人間や人生をそのまま表わすから面白い。
  • 挿画
年老いた母親に、 『どうすればこういう味噌汁の味が出るのかな?』 と尋ねたことがあった。 『さあね・・・。お鍋に何十年もの味が染み込んでいるだけでしょ。』 と即答した母親をポカンと眺めていたことを思い出す。母親は偉大だった。


ところで、齢を重ねてきたせいか、学生時代には人知れず涙を流しながら聴いていたロマン派の音楽などの聴き方が変わってきたようだ。 『感動の音楽!』 などという類のチラシを見ていても、妙に白々しい感じがしてしまう。感動とは、一体何をいうのだろう。

田んぼや畑の畦道を駆けめぐり、野原や小川でおおいに道草を楽しんだ頃が懐かしい。毎朝の道路と庭の掃き掃除や、夕方の薪の風呂炊きなどは、誰も教えてくれることのない様々なことを教えてくれたような気がする。私は、幸せな幼年期を過ごしたと思う。

東京にいると、殆ど全ての世界中の演奏家の演奏が聴けるといっても過言ではなくなった。便利になったことは確かだが、こうも与えられる一方では、どうもマニュアル化しそうで怖い。音楽会が終わった後の、あの都会の空気に再び触れる瞬間が何とも辛い。

『感動の音楽!』 風のチラシが多いのは、そのマニュアル化の一端かも知れないが、音楽会で私が味わいたいのは、音楽会のチラシに描かれた文字ではなく、音楽そのものの味である。音楽は料理と同じように、その人の人間や人生をそのまま表わすから面白い。

その昔、ニコレ先生のところで福島和夫の 「冥」 を吹くことになって、どのように吹いたものか迷っていたら、 『お前は日本人だろ? 感じたまま、思ったままに吹いて、私に教えてくれればいい。』 とアドバイスしてくれたのを思い出す。ニコレは偉大だった。

文:齊藤賀雄(元読売日本交響楽団フルート奏者 東京音楽大学教授)

画:おおのまもる(元読売日本交響楽団オーボエ奏者)