![]() |
![]() |
![]() |
|||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() ![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
||
![]() |
||
![]() |
||
![]() |
||
![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() |
C.P.E.バッハ生誕300周年バックナンバー
![]() 第一回 C.P.E.バッハについて
美食家であり愛煙家、妻と3人の子供達を愛し、多くの友人達と親しく交際し温かい市民生活を楽しんだ、当時ドイツ最大の作曲家であり鍵盤楽器奏者であったエマヌエル・バッハは1788年、ハンブルクでその74年の生涯を終えました。友人達は彼の業績を称えるとともに、“いつも快活で愛想よく、理知的でユーモアに溢れた”その人柄を偲びました。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは1714年、いわゆる父ゼバスティアンのワイマール時代、ゼバスティアンと最初の妻であるマリア・バルバラの次男として生を受けます。その後父の就任地の変更に伴い、ケーテン、ライプツィヒの少年期、青年期に、父ゼバスティアンを“唯一の師”として、鍵盤奏法と作曲を習得しました。1734年、20歳の時にライプツィヒ大学法学部からフランクフルト(オーデル)大学への転入にともない、親元を離れ独り立ちします。そして1738年、プロイセン皇太子の宮廷楽団員に就任します。これより彼の生涯は大きく二つの時代、30年間に及ぶベルリン時代と21年間に及ぶハンブルク時代に区分されます。 1740年、プロイセン皇太子がフリードリヒ二世として国王に即位し、エマヌエルは第一チェンバリストに就任します。このフリードリヒ二世は存命中より国民から“大王”と呼ばれ慕われた、開明的な啓蒙君主でした。当時フランス、イギリスから広まり始めた啓蒙思想に深く傾倒するフリードリヒは、多くの文化人を宮廷に集わせ、ヴォルテール等の哲学者とも親交を結び、古い因習、迷信を遠ざけ、より合理的で理性的な、そして人間は生まれながらにして平等であるという事を踏まえ、国事に携わります。それは例えばフランスのルイ王朝とは正反対の生き方であり、私利私欲で一族の栄華を推し進めるのではなく、国王の仕事を国民の生活を豊かにするためのものと捉え、自らを国に仕える公僕としたのです。この思想はルネサンスの人文主義の流れが加速し、教会と王侯貴族に支配されていた世界から主導権が市民階級に移りつつある中で生まれてきたものですが、本来王侯貴族側であるフリードリヒが、国民の立場で国事にあたったという事が斬新であり、画期的なことでした。そして我々フルート吹きにとって更に“画期的”なこと、それはご存知のごとく彼が芸術を愛し音楽を愛し、フルートを熱烈に愛したことでしょう。エマヌエル・バッハのフルート曲の9割程はこのフリードリヒ大王の下でのベルリン時代に集中しています。もし大王が存在しなければこれらの作品は生まれていないことでしょう。更には父ゼバスティアン・バッハの「音楽の捧げもの」、間接的にもBWV1035のホ長調ソナタを始め、その他多くの作曲家達のフルート作品が存在していないでしょう。どうでもよいことですが、300年後の東アジアの島国で、私がこの様な拙い文を書くこともなかったのです。 このなんとも文化的な王様は、平和な時期には週に3回から5回も宮廷演奏会を開き、自らフルートを演奏するばかりか、100曲以上のソナタと数曲の協奏曲を作曲しました。大王をチェンバロで伴奏したのはエマヌエルです。しかし興味深いことに、フリードリヒはエマヌエルの作品をあまり好まなかったようです。大王が好んだのは彼のフルートの師であるクヴァンツの作風、優美なギャラント・スタイルであり、言うなれば差し障りのない教養ある美しい曲であり、その点、エマヌエルは独創的であり革新的過ぎたのかも知れません。 このベルリン時代のフルート作品(ベルリン以前の数曲も含む)は、 1767年にエマヌエルの名付け親でもあるゲオルグ・フィリップ・テレマン(カール・フィリップ・エマヌエルのフィリップは、テレマンのフィリップに因んでいます)が亡くなると、その後任として、終生、ハンザ自由都市ハンブルクの音楽監督を勤めます。この地でカントルとして市内の各大教会の音楽を取り仕切る等多忙な日々を過ごす傍ら、彼はまた自作品の出版を積極的に行う几帳面で有能な実務家としての一面を見せます。 エマヌエルは親しく知人、友人を自宅の食事に招くのを喜びとして、その際請われるままに即興演奏を披露しました。バーニー*によれば、その演奏は“次第に生気を得て、何かに取り憑かれた様になり、霊感を帯びた”ものであったそうです。エマヌエル本人も「音楽というものは第一に、聴く人の心の琴線に触れなくてはなりません。」と自伝に語り、そのためには演奏家自身が心から深く感動する事が肝心で、それなくしては聴衆を感動させる事は出来ないとしています。多感主義最大の音楽家として有名なエマヌエルですが、それを本人がどの程度意識していたかはともかく、彼独特の世界は鮮明であり、極上のセンチメンタリズム、そして意外な和声展開、突然の間や強弱法を駆使しての感情の急激な変化が特徴的です。それは微笑んでいる人が突然怒り出したり、次の瞬間にはもう涙もろく悲しんでいるというような、“喜怒哀楽の変化”の魅力ある表出です。 このハンブルク時代のフルート作品は、 *チャールズ・バーニー(1726-1814) |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() |
|||
![]() |
![]() |
個人情報保護に関する基本方針 | 特定商取引に関する法律に基づく表示 | サイトマップ | 会社概要 | お問い合せ | ![]() |