エッセイ

フルートで料理

17.自然の味

  • 食材を見ていると、どうやら近年、 “旬” という言葉はなくなりつつあるようだ。野菜にしても、茸にしても、本来あるべき時期とは関係なく、1年を通して常に店先に並んでいることが多い。便利な世の中になった代わりに、店先での季節感を失ってしまった。

    俳句の季語にも、食材はよく登場する。店先を覗きながら、季節を告げる食材をふと目にした時のあの喜びや、ちょっと一句という風流は、残念ながら、もう無くなってしまった。子供達にとっても、季節の野菜や果物を挙げることが難しくなってしまっている。

    科学が進んで、養殖や栽培においても、 “無理が通れば道理になる” で、何時でも欲しい時に、欲しい食材が手に入るようになった。地球を守ろうとする環境問題を考えるのと同時に、自然とどうやって上手に付き合っていくかということも考えていきたい。

    早春の野原や山を歩きながら、 “今年の山野草の芽の出方は変だぞ” と気が付くことの方が、気象衛星などを駆使して集めたデータを分析するよりも、遥かに身近に肌で異常を感じることができるような気がするのに、昔からの人間の智慧は葬られてしまう。
  • 挿画
季節を感じながら、自然の中で育った物を一番美味しく食べるという智慧を、人間は昔から持っていた筈である。自然の味を愉しむということが難しくなってしまった今こそ、本当の意味で、地球を愛し、環境問題を考えていかなければならないという気がする。


ところで、フルート界を眺めていると、どうやら近年 “旬” という言葉はなくなりつつあるようだ。毎年、夥しい数のフルート・コンクールが開かれるようになって、若い人達にとって機会が増えた代わりに、新人を大切に育成していくという感は失われたようだ。

数少なかったフルートの演奏会のチラシを手に取って、目新しい新人をふと目にした時のあの喜びや、演奏会の企画の面白さに興味を持ったという昔のあの感覚も、残念ながら無くなってしまった。自分自身や、企画をアピールするというチラシが少ないのである。

情報や技術が進んで、練習の過程においても “無理が通れば道理になる” で、何時でも欲しい時に、欲しい物が手に入るようになった。フルートのためだけではなく、この現代の社会の中で、どうやって音楽と上手に付き合っていくかということも考えていきたい。

人とアンサンブルをしたりしながら、 “どうも何かが変だぞ” と気が付くことの方が、情報などを駆使して集めたデータを分析するよりも、遥かに身近に肌で異常を感じとることができるような気がするのに、昔からの音楽の伝統による智慧は葬られてしまう。

神来を感じながら、自然の中で育った音楽を一番自然に演奏するという智慧を、人間は昔から持っていた筈である。自然の音楽を愉しむということが難しくなってしまった今こそ、本当の意味で、音楽とは何かを考えていかなければならないという気がする。

文:齊藤賀雄(元読売日本交響楽団フルート奏者 東京音楽大学教授)

画:おおのまもる(元読売日本交響楽団オーボエ奏者)