当時、ライネッケはライプツィヒのクエア通りに住んでおり、自宅からわずか数百メートルの距離にあったユリウス・ハインリヒ・ツィンマーマン出版社と、少なくとも1888年までは実りある協力関係を築いていたようです。ライネッケが作曲した管弦楽のための《ヴィルヘルム1世の死に際する葬送行進曲 Trauermarsch auf den Tod des Kaisers Wilhelm I.》op.200は、おそらくツィンマーマン社より出版された最初の作品ということになります1。また、他の作曲家がツィンマーマン社に提出した出版用の作品をライネッケが精査した形跡も見受けられます2。
《バラード》op.288の出版は、ライネッケの生前、既にツィンマーマン社と約束され、版下(印刷の元となる清書楽譜)が用意されていたのかもしれません。しかし、この作品の著作権は彼の没後、1910年10月11日に相続人マルガレーテ・ライネッケ夫人によって、初めて出版社に譲渡されることになりました。1911年1月に発表された3初版によれば、ツィンマーマン社は製版と印刷の工程をブライトコプフ&ヘルテル社に委託したようです。この協力関係の記録は、おそらく第二次世界大戦の犠牲になり失われてしまったものと思われます。フルートとピアノ版のパート譜とは対照的に、オーケストラパート譜は手書きでした。このリトグラフ印刷(石版印刷)という方式では、版面を彫るのではなく、手稿譜が転写紙を用いて版面に転写されます。オーケストラパート譜の手稿譜を誰が作成したのかは定かではありませんが、作曲家自身の手によるものでないことは確かです。初版のタイトルページにあるライネッケ本人のファクシミリ署名を除けば、《バラード》op.288に関する自筆の資料は一切見つかっていません。契約上、出版社が所有していたはずの手稿資料は、全くと言っていいほど行方不明のままなのです。自筆サインがあるからといって、そこに《バラード》op.288のスコアやピアノ版の自筆譜が含まれていたとは断言できません。なぜなら、一つにはこの署名が通例のように自筆譜の五線紙の最初のページに書かれているようには見えないからです。また、ライネッケは少なくともオペレッタ“Der vierjährige Posten” op.45の場合、現在コペンハーゲン王立図書館に所蔵されている筆写譜にも、自筆のタイトルを書き加えていたことからも明らかです。
初版には明記されていないものの、ピアノ伴奏譜に関してはライネッケ本人の手によって書かれたことが推測できます。《フルート協奏曲》op.283と同様4、《バラード》のピアノ伴奏譜は、コスト上の理由から、オーケストラスコアに代わる一時しのぎのものとして書かれたことは間違いありません。このことは、オーケストラスコアが欠如していることだけでなく、ピアノ譜に多くの楽器名が記されていることからも分かります。また、より詳しく調べると、このピアノ伴奏譜は、現存するオーケストラ版に基づいたピアノ・リダクションではないことは明らかです。その違いは多岐にわたり、演奏指示の小さな相違から音楽構造への大きな介入にまで及びます。つまり、この作品には2つのバージョンが存在するということなのです。
以下の3つの譜例は、初版として公開されたピアノ伴奏譜と、オーケストラパートから本稿の筆者が作成したピアノ・リダクションを比較したものです。
1Dieser Trauermarsch op. 200 ist auch in einer autorisierten Bearbeitung für Flöte und Klavier erschienen.
2D-KIl Ca – Autographen, Reinecke, Carl. Brief vom 18. September 1905 aus Leipzig an einen ungenannten Kapellmeister. Bl. 1v, Z. 3–10, Bl. 2r, Z. 1–4.
3Hofmeisters musikalisch-literarischer Monatsbericht vom Januar 1911, S. 5. Eine weitere Anzeige findet sich in: Neue Musik-Zeitung. Jg. 32 (1911), Heft 17, S. 366.
4D-LEsta 21081 Breitkopf & Härtel, Nr. 2802. Brief vom 27. Dezember 1908 aus Leipzig an Breitkopf & Härtel. Bl. 68r, Z. 12–17.
例えば、アダージョからアレグロへの移行部(39〜40小節目)では、両バージョンの違いをはっきりと聴き取ることができます。 オーケストラ伴奏には、39小節目の物憂げな中声部e1-a1-f1-e1が見当たりません。その代わり、この小節はppで終わり、40小節目のsffでは意外な減和音が後に続きます。一方ピアノ伴奏の方は、アクセントがなくあっさりとしたイ短調の和音で終わっています。
さらにオーケストラ伴奏版では、アダージョとアレグロ部分に共通するモチーフが使われています。94、109、111、118小節目のトランペットパートを見ると、1小節目(ティンパニ)、22小節目(ホルンI/II)、25小節目(フルートソロ)にそれぞれ登場する付点のモチーフが散りばめられています。一方このモチーフは、ピアノ伴奏版のアレグロ部分には全く登場していません。
オーケストラ伴奏版の177〜179小節目のヴァイオリンソロについてもピアノ伴奏とは全く異なっており、ピアノ伴奏版では3連符の伴奏のみが書かれています。
もっとも、この2つのバージョンの違いは意図的なものとは言い難く、上述の理由からオーケストラスコアの役割をピアノ伴奏が担う必要があったため、作曲の過程で両バージョンが生まれたということに過ぎません。自身の作曲の流れについて、ライネッケは《フルート協奏曲》op.283に関連し、「原則として、オーケストラ作品を実際に聴かずに出版することはなかった5」と書いています。そのため、作品は出版前にリハーサルと演奏会、または試演が行われました。《フルート協奏曲》の場合、ライネッケはゲヴァントハウス管弦楽団のティンパニスト、ヘルマン・シュミット(1857-1926)にオーケストラのパート譜を作成させました6。この作品がいつどこで試演されたかという記録は残っていませんが、このパート譜一式が旧ライプツィヒ王立音楽院(現フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学)の図書館に所蔵されているということは、この試演に使われたのが「学生オーケストラ」であったことを示しているのかもしれません。パート譜には、実際にライネッケの手による書き込みが散見されます7。残念ながら今日では失われてしまいましたが、シュヴェードラーの遺品であるソロフルートの譜面には、シュヴェードラー本人によると思われる書き込みが多数ありました。
このようなパート譜の細かな変更は、必ずしも一貫して丁寧にスコアやピアノ伴奏譜に反映されたわけではありませんでした8。また逆に、スコアやピアノ譜に加えられた作曲家公認の修正箇所が、パート譜には反映されなかった可能性も否定できません。原則として、それぞれのパート譜の版下になっているのはおそらくそのように手を加えられたパート譜であり、スコアとピアノ・リダクションには作曲者の自筆譜かそのコピーが使われていました9。つまり、個々のパート譜は、出版社が楽譜制作の過程でスコアから書き出しただけとは考えにくいのです。そのため、個々のパート譜とスコアやピアノ・リダクションとの間にしばしば食い違いが生じるのです。当時は珍しくなかったこの慣習は、現代の編集者に大きな課題を突きつけています。
5D-LEsta 21081 Breitkopf & Härtel, Nr. 2802. Brief vom 12. Januar 1910 aus Leipzig an Breitkopf & Härtel. Bl. 86r, Z. 7–9.
6D-LEsta 21081 Breitkopf & Härtel, Nr. 2802. Brief vom 12. Januar 1910 aus Leipzig an Breitkopf & Härtel. Bl. 86v, Z. 1.
7D-LEmh M.pr. IV 4520.
8So beispielsweise beim Oratorium Belsazar op. 73: D-Mbs Autogr. Reinecke, Carl. Brief vom 19. August 1863 aus Leipzig an Professor [Julius Stern?]. Bl. 1v, 2–21, Bl. 2r, Z. 1–5.
9So beispielsweise im Falle des Violinkonzerts op. 141: D-Bim Doc. orig. Carl Reinecke 11. Brief vom 15. März 1877 aus [Leipzig] an Amalie Joachim.
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