フルートはハンノキ王の娘を体現しています。北欧神話ではこの娘は邪悪な妖精です。彼女はオールフを3回ダンスに誘います(69-75、90-99、114-123小節)。用心深いオールフは、6度の音程が多用された変イ長調の旋律で断りの返事をします(76-84、100-108、124-132小節)。なぜなら、妖精とダンスをした者は死を免れないということを彼は知っているからです。3度目の断りに対し、ハンノキの王の娘は怒って背を向け、(132小節〜)、オールフの心臓に致命的な一撃を与えます(146小節目の三四の和音とシンバル)。デンマーク語ではこれを「妖精の一撃 Elverskud」と呼びます。振り返ってみると、この三四の和音には特別な意味があります。この和音はオーケストラ版では38小節目の最後の8分音符で、経過和音として初めて現れています。これこそが、オールフが後々命取りとなる誤った(和声的な)道に逸れ、ハンノキの王の王国(イ短調)へと迷い込む瞬間なのでしょうか?この不吉な和音は、妖精の踊り(アレグロ)の冒頭で、遅れて現れるバスを伴って提示されます(40、41小節)。
この音楽は、ヘルダーの物語詩よりもずっと華やかな誘惑のシーンを聴き手に想像させます。このような解釈では、バラード特有の簡潔さが、絵本のように詳細な描写に取って変わられます。つまり、よりおとぎ話のようなスタイルに近づくのです。
アレグロ部分のオーケストラパートでは、トランペットがバラードの冒頭3音のモチーフを4回演奏します。このモチーフはソロフルートの25小節目にもmaestoso の演奏指示とともに現れます。さらに中間部(94、109、111、118小節)で、このモチーフはまるでオールフの良心の声のように現れ、この音楽に第二の心理的な階層を加えています。ヘルダーの物語詩にならって、このモチーフには" Hoch-zeit(s)-tag "(結婚式の日)" Bräu-t(i)-gam "(花婿)またはヘルダーの詩にはないが、" Treu-e-schwur "(誓いの言葉)といった言葉を当てはめることができるでしょう。このモチーフが193小節目で再び現れる時、それは下属調であるト短調によって運命的な色合いを帯びます。もしかするとこれが、花嫁が深紅の布を拾い上げて、花婿の亡骸を発見する瞬間なのかもしれません。
《バラード》op.288は、マトリョーシカを思わせるような独特の形式を持っており、3つの異なる形式が入れ子になって成り立っています。アレグロの部分は3節からなる有節歌曲形式(76-99、100-123、124-134小節)が、それとは別の単節の歌曲形式(40-75、134-149小節)に挟まれており、さらにこの2つの歌曲形式が、2つのアダージョ部分から成るソナタ形式の中に含まれています1。
この内側に含まれる歌曲形式(76-134小節)は形式的には不要であり、その3節から成る構造は、詩のテキストや標題がなければ、ただ気まぐれで作曲されたように見えるでしょう。しかし、この音楽をヘルダーの『ハンノキの王の娘 Erlkönigs Tochter』に関連付けることで、アレグロ部分の特異な形式をこのように説明することができます。内側の歌曲形式が妖精の3度の誘惑を表し、外側の歌曲形式(40-75、134-149小節)が木々の中で踊る妖精たちの情景を示すのです。この解釈において興味深いのは、もはや音楽形式の優位性が成り立たなくなることです2。ストーリーが形式を決めているのです。
すでに述べたように、ライネッケはゲーゼ作曲のカンタータ"Elverskud" op.30(1854年)を知っていました。この音楽的バラード作品も、フルートの《バラード》と同様にティンパニのモチーフで始まっています。ライネッケはこのゲーゼの作品を示唆しているのでしょうか?
しかし結局のところ、ライネッケ自身が《バラード》op.288をヘルダーの『ハンノキの王の娘 Erlkönigs Tochter』と明確に関連付ける発言は、今のところ見つかっていません。
"Elverskud"の題材に基づいて《バラード》op.288を解釈することには、いくつかの問題点があります。例えば、母親との対話シーンが抜けているのです。さらに、『ハンノキの王の娘 Erlkönigs Tochter』がライネッケのバラードにこれほどよく合う唯一の文学的バラード(物語詩)なのか、あるいは他にも考えられる作品があるのかを検証する必要があるでしょう。また冒頭で述べたように、ライネッケは根本的に標題音楽を避けていました。標題音楽への考えについては、1851年の父親へ宛てた手紙の中で次のようにまとめています:
「彼(ベルリオーズ)の音楽に共感できないことを残念に思います。ベートーヴェンやシューマンの作品のように、聴く時に何を考え、何を感じるべきかを指示しない音楽と比べ、ベルリオーズの音楽は私を感動させたり熱狂させたりはしないのです。音楽は決して具体的なもの、つまり出来事や概念を表現することはできないと私は考えています。音楽はただ感情や雰囲気を、おそらく他のどの芸術よりも高次で表現できるだけです。音楽家は、例えば星空を見た時に込み上げる感情を表現することはできるでしょうが、星空そのものを描写することはできません。音楽家は確かにイスカリオテのユダの絶望と良心の苦しみを音で表せますが、ユダ自身を描くことはできないのです。3」
ライネッケの《バラード》op.288とヘルダーの『ハンノキの王の娘 Erlkönigs Tochter』の関連性は証明されないままです。とはいえ、ここにもライネッケの標題音楽に対する拒絶と、一方で想像力を掻き立てる彼の音楽との間の矛盾が現れており、解決はそう容易ではないでしょう。結局のところ、音楽に隠されているであろうストーリーに思いをはせるかどうかは、聴衆の判断に委ねられているのです。
1Spemanns Goldenes Buch der Musik. 2. Auflage. Berlin und Stuttgart 1900. Nr. 302.
2Doris Mundus (Hg.): Carl Reinecke. Erlebnisse und Bekenntnisse. Autobiographie eines Gewandhauskapellmeisters. Leipzig 2005. S. 126, 171.
3Reinecke in einem verschollenen Brief aus Paris an seinen Vater im Jahre 1851. D-Dl Mscr. Dresd. App. 2452, S. 77
C.ライネッケ作品(ヘンリック・ヴィーゼ校訂)
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