フルート奏者の竹澤栄祐さんに執筆していただきました。

※この記事は2019年に執筆していただいたものです。

第1回

新しいモーツァルト像を求めて

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)

ヨーゼフ・ランゲ作「鍵盤に手を置くモーツァルト」(未完成)

西洋音楽史は言うに及ばず、人類史上でも「天才」の代名詞として挙げられる名前。
彼は、バロック時代の巨匠、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)が亡くなってから6年後の1756年に、オーストリアのザルツブルクで生まれた、古典派を代表する作曲家です。35年の短い人生の間に、書きかけの断片も含めるとおよそ800曲を作曲し、ベートーヴェンをはじめとするのちの時代の作曲家たちに大きな影響を与えました。≪フィガロの結婚≫や≪魔笛≫のほか20曲以上(未完・共作も含む)のオペラ、≪ジュピター≫など50曲ほどの交響曲、30曲あまりのピアノ協奏曲を含む様々な楽器のための協奏曲、23曲の弦楽四重奏曲を含む様々な楽器編成の室内楽、≪トルコ行進曲付き≫を含む17曲のピアノ・ソナタやピアノのための作品、教会音楽、歌曲、合唱曲、舞曲などなど、彼の作曲したジャンルは他の作曲家に例をみないほど多種多彩で、このこと自体が彼の特徴の一つとなっています(なお曲数については諸説あります)。その中には、たとえば、≪フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299≫など、彼が初めて取り入れた楽器編成も含まれます。

日本では、35年前に映画『アマデウス』が公開されてから、「モーツァルト現象」が巻き起こり、モーツァルト療法から、モーツァルトの音楽を聞かせて果物や野菜を育てたり、お米、さらにはお酒や味噌、醤油を作ったり、テレビで音楽の才能を競い合う番組のタイトルに取り上げられたりするなど、その現象は現在まで続いています。
フルートのレパートリーを見ても、モーツァルト自身の作曲による協奏曲、四重奏曲のほか、いわゆる「編曲もの」も多数出版されています。

塗り替えられるモーツァルト像

映画『アマデウス』公開後の35年の間だけを取り上げても、まさに日進月歩でモーツァルトの研究は進み、様々な通説が塗り替えられ続けています。

『アマデウス』のストーリーのように、モーツァルトはサリエリ(1750〜1825)によって毒殺されていません。雨の日に無縁墓地に葬られた、というのも違います(埋葬された日は晴れていて、共同墓穴に葬られました)。また、映画の中では、彼がまるですべての曲をミスなく清書していたように描かれていて、それこそが「天才」の証しであるかのごとく世間に周知されてきました。確かに彼の作曲の仕方は、最後まで頭の中だけで作り上げ、それを紙に書き写した、しかも書き損じがほとんどなかったという、とても凡人(父親のレオポルトにさえ)には理解不能なものでした。しかし、たとえば≪ハイドン四重奏曲≫として知られる6曲の弦楽四重奏曲や、≪ピアノ協奏曲第24番≫の自筆譜には、多くの修正の跡があることが知られています。また、彼の作曲の前段階で書かれたスケッチ(曲の断片)が多く見つかっています。推敲を重ねて作曲したことで知られるベートーヴェン(1770〜1827)ほどではないにしろ、彼が従来言われていたよりも労作していたこともわかってきています。また、1787年10月、プラハで≪ドン・ジョヴァンニ≫が初演された夜に、モーツァルトが、リハーサルを指揮していた音楽家クシャルツに次のように言ったと伝えられています。

「ぼくの音楽が簡単にこの頭に浮かんでくると思うなら、それは誤解だ。実際、ぼくほど熱心に作曲を勉強した者はいないよ。有名な音楽の大家で、ぼくがその作品を懸命に、しばしば何度も、研究しなかった人はほとんどいないくらいだ。」(ニーメチェック「モーツァルトの生涯」1808年より、高橋英郎訳)

実際に彼の生涯を調べていると、知らない曲に出会うと、持ち主に頼み込んでまで写譜している場面が多くあることに気づきます。ウィーンで活躍し始めた1782年4月10日に、26歳のヴォルフガングが父親レオポルトに宛てた下記の手紙の中に、他の作曲家から学ぼうとする意欲がよく表れています。

「ぼくは毎日曜日の十二時にスヴィーテン男爵のところへ行きますが、そこでは、ヘンデルとバッハしか演奏されません。ぼくは今、バッハのフーガのコレクションをしています。バッハというのは、セバスティアンと、エマーヌエルとそしてフリーデマンです。それからヘンデルのも集めています。」※1

「天才」モーツァルトも、実は努力の人だったのです。エジソンの、「天才は1%のひらめきと99%の努力」という名言を思い起こさずにはいられません。

時代感覚のズレ

このほかにも「天才」には、様々な悪い噂が付きまとってきます。
たとえば、日本語訳にして全6巻になる彼の残した膨大な書簡集(これを訳すのに、海老澤 敏と高橋英郎の両氏はモーツァルトの人生と同じ35年を費やしたそうです)を見ると、駄洒落や語呂合わせ、卑猥な形容から、思わず目をそむけたくなるような糞尿の単語によるたとえ話が至る所で見られます。この手紙のみを見ると、その音楽の優雅さとは違って、モーツァルト本人は相当下品だったのでは、と勘繰りたくなります。しかし、このような一見下品な言い回しは、当時の彼の故郷ザルツブルクでは、肉親、近親者や友人の間ではむしろ普通であった、という研究もあります。

また、彼はギャンブラーでそれが原因で借金漬けになった、と言われたこともありました。しかし、そもそもギャンブルが悪いことだという認識自体、19世紀に入ってからのことで、モーツァルトの時代は、王侯から庶民まで誰もが楽しむ娯楽の一つでした。ただし、モーツァルトの場合、貴族との付き合いが多く、分不相応な金額を掛けていた可能性はあるかもしれません。

さらにこのことに関連して、彼の晩年、借金漬けで首が回らなかったという「借金問題」もあります。このように書くと、典型的な貧乏な音楽家を連想するかもしれませんが、現在の研究では彼が25歳からウィーンに移り住んで、音楽史上初めてフリーの音楽家となってから、亡くなる年まで高額所得者だったことがわかっています。彼の借金については、彼の浪費癖もさることながら、1787年にオーストリアがオスマン帝国と戦争(墺土戦争 1787〜1791)をしたことによりウィーンの物価が急騰したことや、財政政策によって一度借金をすると、完済しにくい仕組みになったことなども原因だったことが徐々にわかりつつあるようです。 

このように、作曲家の人生を見るときに、現代の私たちとは人生観、価値観が違うことを見過ごしてしまうと、当時の人たちを正しく評価することができません。

映画から見るモーツァルトの時代

当時の生活、価値観などを知る方法の一つに映画があります。
たとえば、映画『ゲーテの恋〜君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」〜』では、モーツァルトよりも7歳年上の文豪ゲーテ(1749〜1832)が、23歳当時過ごしたドイツの地方都市ヴェッツラーの様子が描かれています。この映画では、徹底した時代考証がなされているため、舗装されていない土の路地に下水が垂れ流しされた結果、晴れているのにぬかるんでびしょびしょだったり、若い男女が公民館のホールのような場所で行われている舞踏会で、メヌエットを踊る様子が、トラヴェルソと弦楽器、手押しオルガンの演奏と共に描かれたりしています。

また、映画『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路』では、モーツァルト一家が馬車に乗って演奏旅行する場面や、当時の女性蔑視の思想が描かれています。

Pietro Domenico Oliviero作 イタリア・トリノ王立劇場「テアトロ・レージョ」

さらに、映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』では、モーツァルトの4大オペラの一つ≪ドン・ジョヴァンニ≫が、プラハで初演された様子が描かれています。興味深いのは、そこで描かれている歌劇場のオーケストラ・ピットです。オーケストラ奏者全員が現在のように客席を向いているのでなく、演奏者同士が2列になって向かい合って座り、演奏しています。また、下記の手紙の様子が実写され、当時のヨーロッパで、舞曲がいかに生活に根付いていたかがわかります。

「その人たちがみんなぼくの『フィガロ』の音楽を、コントルダンスやアルマンドにして(注:映画では弦楽四重奏の奏者たちが即興でダンス・ミュージックにアレンジしています)、心から楽しそうに跳ねまわっているのを見て、すっかりうれしくなってしまった。」※2

これらの例からも、現代日本に暮らす私たちと、およそ250年前のヨーロッパでの様々な違いがわかるでしょう。 ただし、今回見てきたように、モーツァルトの人生について、たとえ今後新たな研究成果によって、さらに塗り替えられることがあっても、彼の音楽の美しさは決して塗り替えられることはありません。

※1・2 モーツァルトの手紙の訳出は、「モーツァルト書簡全集(1)〜(6)」海老澤 敏、高橋英郎訳より引用

≪主な参考文献≫

・モーツァルト全作品事典、ニール・ザスロー、ウイリアム・カウデリー著、森 泰彦、 安田和信監修、音楽之友社

・モーツァルト書簡全集(1)〜(6)、海老澤 敏、高橋英郎訳、白水社

・作曲家◎人と作品シリーズ モーツァルト、西川尚生著、音楽之友社

・モーツァルト“天才”の素顔とその音楽の魅力、音楽の友編、音楽之友社

・モーツァルトは語る―ぼくの時代と音楽、ロバートL.マーシャル編著、高橋英郎、内田文子訳、春秋社

・モーツァルト―音楽における天才の役割、H.C.R.ランドン著、石井 宏訳、中公新書

竹澤 栄祐

東京芸術大学音楽学部器楽科フルート専攻を経て、同大学院修士課程修了。さらに博士後期課程に進み、「J.S.バッハの作品におけるフルートの用法と真純問題をめぐって」についての研究と演奏で管楽器専攻としては日本で初めて博士号を授与される。
過去9回、銀座・王子ホールにてリサイタルを開催。
アジア・フルート連盟東京の会報では、創刊号から10年以上「J.S.バッハのフルート」を連載中。ソウル大学や上海音楽学院などで講演を行っている。
これまでにフルートを北嶋則宏、播博、細川順三、金昌国、P.マイゼン、室内楽を山本正治、中川良平、故岡山潔、音楽学を角倉一朗の各氏に師事。
現在、アジア・フルート連盟東京常任理事、東京芸術大学非常勤講師、埼玉大学教育学部芸術講座音楽分野教授。