• Gabriel Fauré ガブリエル・フォーレ

  • 国籍 フランス
    父親 トゥサン・オノレ・フォーレ
    母親 エレーヌ・フォーレ(地方貴族出身)
    生年月日 1845.5.12 場所 パミエ フランス
    死亡年月日 1924.11.4 場所 パリ(マドレーヌ寺院で国葬)
    作曲活動時期 1871〜1924
    活動の中心地 パリ、ロンドン
    音楽史上の位置 後期(フランス)ロマン派
    作曲上の特徴、技法 ニデルメイエールで身に付けた教会旋法を自然に使いこなし、Note étrangère(調性外音)による調性の拡張、和音を速いアルペジオにすることで拍節と微妙にずれる転調感、カデンツにおいてCadence fauréenne(フォーレ終止 I-IV-V半終止)を使う。ドミナント程強くないが優位な音、note pré-dominanteの多用、先進的な11の和音の使用。
  • 社会的賞与(勲章等)
    普仏戦争 croix de guerre
    レジオンドヌール勲章 Chevalier 1890
      Officier 1903
      Commandeur 1910
      Grand-Officier 1920
      Grand-Croix 1923
  • 作曲以外の音楽活動   時期
    教会付オルガニスト サン=ソヴァール・レンヌ 1866〜1870
      ノートルダム・ド・クリニャンクール 1870
      サン・シュルピス(Widorの助手) 1871〜1874
    マドレーヌ寺院 第二オルガン奏者 1874〜1876
      音楽長 1877〜1896
      主席オルガン奏者 1896〜1905
    地方コンセルヴァトワールの視学官 1892〜1905
    パリ音楽院作曲科教授(対位法、フーガ兼任) 1896〜1905
    パリ音楽院院長 1905〜1920

ガブリエル・フォーレとフルート作品について

1900年から第一次世界大戦までの時期をベル・エポック(Belle Époque)と呼ぶが、この時代はパリが最も華やかだった時代。ベル・エポックの約10年前、1889年のパリ万博ではエッフェル塔が建ち上がり、映画館、デパートが作られ、世界中からありとあらゆるものがパリ万博に流入し、ロンドンと並ぶ国際金融都市になっていく。その後、世紀末の10年間の混沌とした時代を経て、パリの街は次の1900年の万博へ向かって花と光の都として輝いていく(1900年開通予定だったメトロは間に合わなかった)。ファンタジーが作曲された1898年はまさに世紀末であり、すでにベル・エポックだった。

フォーレは、小学校教師の父親と地方貴族出身の母親の間にパミエ(フランス南西部スペインに近いアリエージュ県)で生まれた。姉が1人と兄弟4人の6人兄弟で、生まれると間もなく乳母のもとで育てられる。
1853年にパリに新設されたばかりの寄宿制の音楽学校、ニデルメイエール古典宗教音楽学校(École Niedermeyer)に1854年9歳で入学、20歳までここで過ごす。学生は30名で、教育の基本はグレゴリオ聖歌、パレストリーナによる宗教音楽、バッハのオルガン曲を中心とし、各教会との関係で、将来、礼拝堂の音楽長の地位が約束されていた。設立者のニデルメイエールは、スイス生まれの作曲家で、ピアノと作曲を同校で教えたが、フォーレ在学中に死去、後任のピアノ教授として来たのがサン=サーンスだった。

1870年普仏戦争で出兵する。この戦争でcroix de guerre(戦争十字勲章)を受ける。
復員後1871年サン・シュルピス教会のオルガニスト(ヴィドールの助手)になった。ここではヴィドールと2人でしょっちゅう即興演奏合戦を繰り広げ、特にどの様に転調させるかを競い合っていたという。そしてこの年に国民音楽協会(Société Nationale de Musique)が発足し、フォーレとタファネルは発起人メンバーとなり、すぐにヴィドールも参加する。この協会は普仏戦争で敗戦した中で、フランスの芸術(Ars Gallica)の名の下に新進のフランス人作曲家たちの作品を世の中に知らしめすことを理念として掲げ、当時舞台音楽が中心だったフランスでオーケストラ曲や室内楽曲をもっと世の中に紹介していこうというもの。オペラ、バレエ(オペラの中でバレエの場面があることが必須)は、国の保護により次々と上演されていくが、純粋なオーケストラとしてはパリ音楽院管弦楽団のみで、室内楽は各サロンでのコンサートにとどまっていた。サロンは1900年以降のベル・エポック時代にはかなり華やかな世界になっていくが、この時代はまだそこまでにはなっていなかった。フォーレは、ヴィアルドー家のサロンへの出入りが多くなり、また当時の富豪カミーユ・クレール家と親しくなり、その大きな邸宅に滞在して室内楽や歌曲の創作に打ち込むようになる。そして、次第に他のサロンへの出入りも増え、「サロンの作曲家フォーレ」と呼ばれるようになる。

1896年にテオドール・デュボアがパリ音楽院の院長に就任すると、それまでデュボアが務めていたマドレーヌ寺院の主席オルガン奏者の座がフォーレに引き継がれ、同時にデュボアの後任としてヴィドールが作曲科教授に就任する。この時の院長選では前院長アンブロアーズ・トーマの側近だったマスネも立候補していたが結局敗れ、これを不服としてパリ音楽院を去る。このマスネの後任としてフォーレも作曲科教授になる。フォーレは、1892年には、パリ音楽院作曲科の教授選に立候補していたが、その先進的で独特の和声進行の扱い方と、パリ音楽院ではなく、ニーデルメイエールの出身であることなどから、当時の院長、アンブロアーズ・トーマから一方的な批判を浴び、結果、マスネが選出された経緯があった。このフォーレの作曲科の教授就任人事は、トーマ〜マスネの一件に対する報復人事といわれる。この時すでに作曲家としてのフォーレの名声も確固としたものになっており、フォーレのクラスには、以後の近代フランス作曲界を代表することになる人材が集まった。生徒は、ラヴェル、フロラン・シュミット、カゼルラ、ケックラン、ルイ・オベール、ロジェ・デュカス、エネスコ、ラドミロー、ブーランジェ、ヴェイエルモーズ等。この頃から国外での名声も高まり、特にロンドンでの社交界との繋がりが強まって、ロンドンに滞在する機会が増える。

ファンタジー Op.79

ファンタジー Op.79は、1898年度のパリ音楽院の卒業課題として書かれた。この年度は1893年にタファネルがフルート科教授になって5年目で、前任のアルテスが教授を務めていた1868年から1893年までの25年間の卒業課題は、アルテスのソロ、トゥルーのソロ、の繰り返しに、2度ばかりドゥメルスマンのソロというものだった(25年間 !!)。この1898年は、まさにパリ音楽院近代化改革の第一歩ともいえる年で、この年度の管楽器の卒業試験は、全て新曲を使う事となった。課題は2曲、新曲と初見課題。しかも、新曲の楽譜は、現在と同様、試験の約1ヶ月前に出版されるというシステムを作り上げた。ただしこの年度が初めての試みであり、本当に1ヶ月前に出版されたかは確認できなかった(当時の新聞では課題曲の「題名」のアナウンスは試験直前)。フォーレとしては、初期の作品等で出版がうまくいかなかったことも多々あり、名声を得ても出版社との考え方の相違に手を焼く事が多かった。このシステムはパリ音楽院の名のもとに楽譜が出版されるという、フォーレにとっても画期的なものだったと思われる。試験は、1898年7月28日(木)に行われており、6月の末に出版ということであれば、校正を含め、5月末には書き上げているはず。この年は多忙を極めた年で、3月に歌曲「優しい歌」を作曲、ロンドンで初演(自らピアノ伴奏)し、おそらくその時がきっかけで、メーテルリンク作の戯曲、ペレアスとメリザンドの付随音楽作曲の依頼を受けたと思われる。実は依頼主は、最初ドビュッシーに話を持って行ったが、その時ドビュッシーはすでにオペラとして書き始めており、断られた。しかし上演は3ヶ月後に差し迫っていて、困っていた所に人気作曲家フォーレがロンドンに来たので依頼してみた。フォーレはこれを引き受け、4月に再びロンドンに行って打ち合わせを行う。しかしこの時期、パリ音楽院の作曲科クラスの他にマドレーヌ寺院の主席オルガン奏者の仕事、地方のコンセルヴァトワールの視学官の仕事もあり、卒業試験課題曲の作曲もある。ペレアスとメリザンドのために19曲を書くことになっていたが、残された時間は実質2ヶ月弱で、時間に迫られて最後のオーケストレーションを生徒の中で最も信頼していたケックランに全て任せている(丸投げ、結果的に2曲間に合わなかった)。ファンタジーの楽譜もギリギリでタファネルに託され、最後の校正や不都合があれば修正してくれと手紙を添えてペレアスとメリザンドの初演に出発した(デュボアあての手紙でタファネルに楽譜を手渡した事を告げてからロンドンに行ったのが6月16日)。

当時のパリ音楽院の卒業試験では、木管金管、全科同じ日に同じ審査員で審査されていたが、1898年は、新曲による試験となり各曲の作曲家も当然審査に加わるため、木管7月28日、金管29日に分けて行った。
木管の審査員は、音楽院長のテオドール・デュボアを審査委員長として、フォーレ、ヴィドール(Cl.課題作曲)、ピエルネ(Fg.課題作曲)、パラディール(Ob.課題作曲)、ジョナス(作曲)、エヌバン(タファネルの次の教授になる)、テュルバン(オペラ座とパリ音楽院管弦楽団のクラリネット奏者)、ウェッジュ(ギャルド・レピュブリケーヌ/共和国親衛隊吹奏楽団の指揮者、作曲家)が審査員。フルート科卒業試験受験者は8人で、一等賞がBlanquart、二等賞がBladet、詳細は別表参照。翌日の金管では、審査委員長デュボアは変わらず、各楽器の課題曲作曲者と各楽器の演奏家が審査員。パリ音楽院の教授は審査に加われないので、必然的に各楽器の審査員は外部の人間となる。



  • 作品名/編成 Fantaisie Op.79/Fl. Pf.
    献呈 P.Taffanel
    作曲年 1898
    出版社/出版年 Hamelle/1898
    初演者/初演日/初演場所 卒業試験受験者/1898.7.28./パリ音楽院

コンクール用小品

「初見課題」の言い回しは他にMorceau de premiére vue、Morceau de déchiffrage、Morceau pour dechiffrée等があり、Morceau de déchiffrageがパリ音楽院的に一般、外部に対しても分かりやすく伝える場合はMorceau de premiére vueが使われる。初見の試験をどうやってやったのか、常識的には音を出さずに5分ほど楽譜を見てから出て行って吹いたのか ?とすれば演奏用、下見用と審査員用9部(あるいは2人で見て5部)合計最大11部を手書き譜で用意したのだろうか。これほどの作曲家たち(現場では多分誰もそう思っていなかっただろう)の作品でも下手すれば廃棄、あるいは散逸する。この中の一枚が、ベルギー、ブリュッセルに住むコレクターの手元にあることが分かり、1970年にアメリカ・コネチカット州ニュー・ヘブンのAnbel Hulme Brieff氏が買い取り、出版の手配をする。ところが原曲は19小節しかなく、出版社はあまりに短いという事で難色を示し、曲を2度繰り返すような形で編曲して出版されたのが現在使われている版。現在出版されているものではヘンレ版Urtextが原曲の19小節版になっているが演奏してみるとやはり「短い」という感じはある。この1898年度の、他の木管の初見課題曲もやはり散逸し、現在までに発見、出版されたのはこの曲だけ。もしかしたら将来発見されるかも知れないが・・・。



シシリエンヌ

もう一つ忘れてはいけないのが前出のペレアスとメリザンドのシシリエンヌ。
シシリエンヌ Op.78は、元々は1893年に作曲した未完の付随音楽「町人貴族」の中の1曲として書かれたもの。「町人貴族」は、この時代よりもさらに約200年昔、1670年作のモリエール原作の音楽劇で、この原作にはリュリが音楽を付けた。このお蔵入りした、フォーレの「町人貴族」からの抜粋として、1898年チェロとピアノの曲として出版されたのがシシリエンヌ Op.78。一方ペレアスとメリザンドは、16人の舞台用小編成オーケストラ曲として作られていたが、1900年にかけて3曲を抜粋し2管編成オーケストラ曲として再編、初演された。ところが本人自身納得がいかず「シシリエンヌ」「メリザンドの歌」を加えて5曲の組曲とした。この時シシリエンヌはチェロ独奏からフルート独奏に変えられ、一気に人気が高まって、以来この曲はフルートの名曲として認知されることになる。つまりシシリエンヌは本来ペレアスとメリザンドのストーリーとは関係なく、組曲全体からするとやや違和感がある。また、チェロ版の時Andantinoだった速度表示が、組曲でフルートが独奏になった時Allegretto molto moderatoに変わっている。



  • 作品名/編成 Sicilienne Op.78/Fl. Pf.
    献呈  
    作曲年 1898/93
    出版社/出版年 Hammelle 1898.4/Op.78/Vc
    初演者/初演日/初演場所 オーケストラ版(フルートソロのシシリエンヌ)
    シュヴィヤール指揮、コンセール・ラムルー管弦楽団/1909.12.26/テアトル・ド・パリ(当時はヌーヴォー・テアトル)


フォーレは、タファネルの1歳年下で同世代であり、両者ともSociété national de musique(国民音楽協会)の設立メンバーでもあるが、この2人の共演(フォーレが伴奏)記録は見当たらない。フォーレのオーケストレーションの中でフルートはかなり重視されているが結局フルート作品は1898年(〜1900)の時期にしか作曲していない。今回の調査で、1899年に付随音楽シャイロックのノクチュルヌをVl.(Fl.)とPfの曲にフォーレ自身が編曲したものがHamelleから出版されたのが判明したが現在入手不可。

1905年のパリ音楽院院長就任のきっかけは、弟子のラヴェルがローマ大賞に落選し(5回目の挑戦、年齢制限の最後の年)、これを公然とフォーレが擁護し、ローマ大賞を管理する学士院(Academie)の判断にかみついたことでスキャンダルとなり、院長のデュボアが責任を取って引退、そうするとフォーレが就任することになってしまうのだが、今度はそれまでパリ音楽院出身でローマ大賞受賞者が歴代務めてきた音楽院長が、ニーデルメイエール出身でローマ大賞を取ってない(ラヴェル同様)フォーレになったわけで、さらに音楽界全体が震撼する出来事になった。

フォーレは耳の具合が悪くなっていった。1914年のバカンスの時期、7月にドイツのエムスに湯治に行っていた。そして突然第一次世界大戦が勃発、敵国となったドイツから必死の思いで帰国する。

第一次世界大戦では、パリ音楽院の学生や各オーケストラ団員が多く招集され、また志願兵として戦地に赴く人も多かった。音楽院長フォーレの元、作曲科教授陣(ヴィドール、ルヌヴー)とブーランジェ姉妹によって、Gazette des classes de composition du Conservatoire(パリ音楽院作曲科クラスの新聞)が発行され、戦地からの手紙の内容を掲載し、誰が何処にいるか、負傷、捕虜、行方不明、死亡の情報を関係者に公開していた(一部約60ページ、謄写版タイプ打ち)。これにより出兵したゴーベール、エネスコ、カミュ、イベールらの置かれた状況が分かる。

有名なレクイエムは、原点は1877年で、その後幾度も変更され、最終形として1900年7月12日に万国博の公式コンサートで演奏されるが、この時の演奏がタファネル指揮のパリ音楽院管弦楽団。フォーレが死去した際には国葬となり、レクイエムで送ることになったが、今度はゴーベール指揮のパリ音楽院管弦楽団が演奏した。

ファンタジーは1898年度の卒業試験の他に、第一次世界大戦の最も激しい戦いに若い作曲家たちも戦地に赴いた1916年度、そしてフォーレが死去した翌年1925年度(ゴーベールがフルート科教授)にも卒業試験課題曲になっている。1925年は、まるでフルート科によるフォーレへのレクイエムのようですらある。

次回は、フォーレのファンタジーOp.79のアナリーゼと演奏動画です。

<参考資料>

  • フランス国立図書館内 電子図書館Gallica
  • 新装版 ガブリエル・フォーレ 著者:J=M.ネクトゥー/編訳:大谷千正


G.フォーレ 対談(次回掲載予定)