エッセイ

フルートで料理

2.食事は楽しく

  • 食事というものは、本来、時間をかけてゆっくりと楽しむものだと思う。目覚まし時計に叩き起こされて、洗面所と台所の間を小走りに往復しながら、立ったままでというよりも、寧ろ走りながら食べ物を口に含むという姿は、風刺のドラマだけであって欲しい。

    健康のためにと、自分の食べたいものを制限しなければならないと、これも辛い。健康診断などで、標準の数値から外れていることを知らされると、死んでもいいから好きな物をというよりも、やはり命が惜しくなって、食事制限を守る努力をするから不思議だ。

    昔に比べて、外で食事をする機会が多くなったことも確かだが、唯単に外で食事をする便利さを求めてしまっていることも見逃せない。食事の楽しさや、味、栄養などを考えるよりも、駅の立食い蕎麦やハンバーガーなどの機能性の方が求められてしまっている。

    “おふくろの味” というのが商売になるということは、それぞれの家庭の中にそれが無くなってしまったということを意味しているのだから、これはちょっと寂しい。 “○○家庭料理” 的な看板も目につくようになってきたということは、今度はちょっと恐ろしい。
  • 挿画

一家の主の座る席が決まっていて、そこだけは一品多くなっているという必要はなくても、食事はせめて一家団欒の場でありたい。バランスのとれた食物を、家族みんなが顔を合わせて、楽しく味わって食べるということは、遥か昔の話になってしまったようだ。


ところで、音楽は本来ゆったりとした気分で愉しむものなのに、開演時間を気にしながら、それこそ駅の立ち食いそば屋で慌てて腹ごしらえをして会場へ駆けつけてみても、何か気ぜわしいだけで、ゆったりと音楽を愉しむという本来の姿とは掛け離れてしまう。

教養のためにとか、感性を育てるためにとか、何となく教育的な考え方で音楽をとらえようとすると、自然さが無くなるだけではなく、そこには無理が生じる。楽しい筈の音楽が何故苦しい行為になるのかとその無理を意識して初めて、とらえ方が変わってくる。

昔に比べて、音楽会の数はべらぼうに増えたが、中身的にはどうなのだろう。音楽の楽しさや感動などを売り物にするのは、演奏家が生活していくために必要な行為なのだから当然のことだが、本当の楽しさや感動を与えてくれるものは一体どれだけあるのだろう。

マスコミの波に乗ったものが優先していくのはちょっと寂しい。これは、一般聴衆の耳がだめになってしまったことを意味する。その上、音楽の本質から更に外れた、単なるアイディアだけのようなうたい文句で攻めてくるものもあって、これはちょっと恐ろしい。

音楽は決して特殊階級の人達の物ではない。せめて人間同志の楽しみの場、楽しみや感動を分かち合う場でありたい。バランスのとれた物の考え方をする人達が集まって、平和な笑顔を絶やさない生活をすることは、遥か遠い昔のことになってしまったのだろうか。

文:齊藤賀雄(元読売日本交響楽団フルート奏者 東京音楽大学教授)

画:おおのまもる(元読売日本交響楽団オーボエ奏者)