エッセイ

フルートで料理

3.素人料理

  • 小学生の頃、母親がピアノを自宅で教えていて、土曜日のように、午前中で学校が終わって腹を空かせて帰ってきても、茶の間には食事の用意が出来ていなかったことが多かった。勿論、外食産業などは未だ皆無の時代だったから、自分で作らざるをえなかった。

    氷室に天然氷の入った冷蔵庫を開けて中身を調べ、台所の床板を外してどんな野菜が入っているかを確認して、徐に何を作ろうかと考えるのだが、襖一つ隔てて聞こえてくる母親の生徒に対する声の調子に、結構メニューが左右されたことを想い出す。

    汗をかいた日には塩気を欲するし、身体が何となく疲れている時にはさっぱりした物を作りたくなる。母親の声の調子が高い時には、どういう訳かちょっと辛い味を想像してしまったり、脂っこい物が食べたくなったりする。

    大きな料亭やレストランのように、厨房が見えないところよりも、カウンター越しに料理人と気楽に話が出来るところを好むのは、私だけではないだろう。料理人にとっても、その客が今日はどんな体調かを見たり、話などから察することは大切なことに違いない。
  • 挿画
素人の料理は、全く気分に依るところが多い。それでいいのだろうし、それがいいのである。プロの料理人にはそんなことは許されない。必要に迫られて始めた料理作りも、もう彼此40年になるが、想像するよりも遥かにアイディア次第の創造の世界なのである。


ところで、音楽は、本来、楽しむものであると同時に、楽しませるものである筈なのに、自分でやり始めると、どういう訳か楽しめなくなってしまうようだ。特に、受け身の生活、与えられる生活習慣が当たり前になってしまった現代では、それが著しいようだ。

自分がその音楽に感動したり、好きだと思う前に、世の中の流行りとか、流れとか、噂など、マスコミを通じて得た情報が全てを支配してしまっていることが多い。そこには、自分の感性との対話や、自分自身の他人との環境の違いを考える隙間もない。

パチンコ店の 「軍艦マーチ」 ではなくても、その時その時に応じて、流麗なモーツァルトが相応しいルンルン気分だったり、ブラームスの第3番のシンフォニーに失恋の悲しみを託してみたり、妙にワーグナーを聴きたくなったりする。

音楽には様々なジャンルがある。クラシック、ポピュラー、ジャズ…、クラシックの中にもオーケストラ、声楽、器楽…、器楽の中にもピアノ、管楽器…、管楽器の中にも金管楽器、木管楽器…、木管楽器の中にもオーボエ、フルート…。

趣味でフルートを吹く人は、気儘に吹けば良い。それでいいのだろうし、それがいいのである。プロの笛吹きにはそんなことは許されない。音楽をやりたくて始めたフルートももう彼此35年になるが、趣向と機知に富んだ創造の世界は、全く料理の世界なのである。

文:齊藤賀雄(元読売日本交響楽団フルート奏者 東京音楽大学教授)

画:おおのまもる(元読売日本交響楽団オーボエ奏者)