これは、現代最高のバッハ弾きとして名高いサー・アンドラーシュ・シフの言葉です。(2024年リサイタルのプログラムより)
そんな魅力的なバッハについて、様々な視点から書かせていただいたのが、拙著『<バッハのシチリアーノ>は真作なのか?』です。そして、この本で触れたトピックをさらに掘り下げ、皆様のフルート演奏に役立つ実践的な内容を目指すのが本連載の目的です。
さっそく皆さんに質問です。
下の楽譜の曲名は?
そして、
なぜこんな楽譜が出版されているのでしょうか?
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© Bärenreiter
これは、バッハの有名なチェロ組曲の楽譜です。
私はこの楽譜を初めて見たときに、「何かと似ている」と思いました。
下記をご覧ください。
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3つの原典版、自筆譜、筆者譜などをコピーして1小節ずつ並べ、臨時記号やスラーなどの違いを調べたもの

修士論文執筆のために作ったスケッチブック(計3冊)
これは、修士論文執筆のために作ったスケッチブックの一部です。
研究していた「フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ ロ短調 BWV1030」の、当時出版されていた3つの原典版、自筆譜、筆写譜などをコピーして1小節ずつ切り取って縦に並べて貼り付けて、臨時記号やスラーなどの違いを一つ一つ丁寧に調べたのです。
拙著の起点となったのは、この修士論文のための研究でした。
大学院に入った私に与えられた課題は、「バッハのロ短調ソナタの第2楽章の臨時記号について調ベては」というものでした。しかし、当時は、現代のようにインターネットやパソコン、スマホはおろか、「論文の書き方」といった本さえ、ほんの数冊しかないという状況でした。そのなかで、本当に手探り状態で研究しました。
何とかワードプロセッサー(!)で書き上げた論文は、幸運にも師匠である故・金昌国先生に評価され、『季刊ムラマツ』で6回に分けて連載(第43号〜第48号)される機会をいただきました。
その後、博士後期課程に進学し、バッハ研究の世界的権威である角倉一朗先生のご指導を受けることになり、研究課題は先生の鶴の一声で「バッハの3曲の疑作の真偽問題」となりました。
この博士論文を完成させ、学位を授与されたのが1998年のことで、その10年後の2008年にはアジア・フルート連盟が発足。この発足に際し会報を作成することになり、以後13年間、年に4回発行される会報に連載を執筆しました。
この連載は、博士論文や修士論文をもとにして書き進めましたが、時にはバッハの研究から離れ、自筆譜やアクセント記号の歴史、演奏するテンポなど、フルート奏者が直面する実践的な問題に焦点を当てる形で、自分なりの研究を深めながら執筆を続けました。
やがて紙媒体での会報の出版終了とともに連載も幕を閉じましたが、およそ12万字にわたる原稿が手元に残りました。その後、この原稿を活用して出版を目指し、出版社に提案を試みましたが、なかなか出版のゴーサインが得られません。その原因を探る中で、もともとの原稿の構成に問題があることに気づきました。
そこで文章の構成に関する書籍を読み漁る中、アメリカ人が執筆した映画脚本の書き方に関するhow-to本に出会い構成を見直しました。
また、読者層をこれまでのフルート奏者中心から広く一般の読者へと拡大させ、専門性が高く、一般読者にとって敷居が高い音楽書と、対して近年流行している極端にわかりやすく解説された音楽書の中間を橋渡しするような本を目指すことにしました。このように方針を再設定したうえで再び出版社にアプローチした結果、ようやく出版に向けてのゴーサインを得ることができました。
ただ映画の脚本の書き方を参考にして15章仕立てにしたまではよかったのですが、映画はあくまでもフィクションであり、結末は作者が自由に創作できます。しかし、私の本はノンフィクションであったので、恣意的に史実などを変えることができない、そこが一番苦労したところでした。
またもう一つ、本書ではほとんどの章で最初に読者に質問を投げかけて、その疑問を解き明かしながらも、タイトルでもある『<バッハのシチリアーノ>は真作なのか?』という疑問については、本全体を通して少しずつ解き明かしていく構成にしましたが、これは独自のアイデアです。
このような背景から、特に前半では一般読者向けに音楽用語を可能な限りわかりやすく説明することを心掛けました。しかし、後半での楽譜などを用いた曲の分析では、すべての音楽用語を詳細に説明することが難しい箇所もありました。
ですから、「はじめに」の「本書の読み方」では以下のように記しました。
「音楽の専門知識のないあなたへ。
全部読まなくても、どこから読んでもよいのです。」
これまで数多くのhow-to本を目にしてきましたが、そういった本の多くは、著者の主張が序文を読めば大半理解できてしまうことも少なくありません。しかし本書では、なぜバッハが「音楽の父」と称されるのかといった多くの疑問について、30年以上の研究成果をもとに、私なりの解答を提示しています。この点で、本書は一冊で数冊分の内容を網羅していると自負しています。
しかし、やはり音楽は何よりもその音そのものが本質であり、文字だけで伝えられる情報には限界があります。そのため、この連載では動画や演奏家との対談を交えながら進めていきたいと思います。
最後に、冒頭の
「なぜこんな楽譜が出版されているのでしょうか?」という質問の答えについて。
現代の出版楽譜に至るまでの歴史と現状については、拙著だけでなく、
本ホームページの「日本・オーストリア友好150周年特別企画 W.A.MOZART」の第3回「『モーツァルトらしさ』って何? 〜フルート作品を例に〜その1」で解説しています。しかし、冒頭で取り上げたチェロ組曲の楽譜は、それをさらに一歩先へと進めたものだと思っています。この楽譜では、バッハの2番目の妻、アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜をはじめとする、当時の重要な筆写譜(残念ながらバッハの自筆譜は残されていません)と1824年の初版譜が、小節ごとに縦に並べられており、一目で比較できます。これにより、演奏家自身が資料を直接検討し、それに基づいて演奏することが可能となりました。つまり、事ここに至り、演奏者に編集者としての役割が与えられたのです!
バッハの楽譜の進化には、驚かされるばかりです。