ムラマツ・フルート・レッスンセンター講師の森岡広志先生に執筆していただきました。

※この記事は2012年に執筆していただいたものです。

第2回

シランクス

「シランクス」というとどうしても忘れられない出来事があります。それは1976年夏、私がニースの講習会に参加していた時のことです。講師はあのランパル大先生でした。レッスンの無いある日の午後、講習会場だったニース音楽院の近くを友人と散歩していました。空は真っ青に晴れ渡り、南フランスの黄金色の太陽がさんさんと降り注ぎ、あたりの景色をくっきりと浮かび上がらせています。すると、なんと向こうからランパル先生がスタスタと歩いて来るではありませんか。大きい体に原色の派手なシャツを着て真っ白なズボンを履いて、私達を見つけてニコニコしながら近づいてきて、「やあやあ、元気か?」と気軽に声をかけてくださいます。私達のほうはフランス語は達者ではないし、有名なランパル先生と話しているという緊張もあり、初めは笑顔で「元気元気、オッケーです。」というばかりでしたが、そのうち大胆になってきて「ランパル先生、ここでフルート聴かせていただけませんか?」と言ってしまいました。ランパル先生ちょっとびっくりした様子でしたが、すでに友人は持っていたフルートを手際良く組み立ててランパル先生にさしだしております。さすがランパル先生ですね〜、ニッコリとフルートを受け取り、吹き始めました。その時吹いてくれた曲、それが「シランクス」でした。目の前30センチぐらいのところであのランパルトーンが鮮やかに、しっとりと響いています。その時、空はますます青く、太陽はますます黄金色に輝きだしたように感じました。この時以来私にとって「シランクス」は、深い青と輝く金色のイメージなのです。皆さんの「シランクス」は何色ですか。

さて、ドビュッシーは「シランクス」をガブリエル・ムーレのポエム・ドラマティック「プシシェ」のための劇音楽として1913年に作曲しました。この劇の第三幕第一場で「牧神パンが死ぬ前に奏でる最後の音楽」を依頼されたのです。舞台上では、二人の水の精が、遠くから聞こえるパンが吹く笛の音を聞き、感動し、詩的な会話を始めるという場面です。この時「シランクス」を吹くフルート奏者(初演はルイ・フルーリー)は舞台袖で演奏するようにというムーレの指示があったそうです。ということは、「シランクス」は 遠くに、舞台上の会話は前面に、当然ながらそれらが混じり合って観客には聴こえたわけで、そうすると全体としてどんな響きがしたのか?と、ずっと思っていたのですが、最近あるCDを聴きました。それはジュリエット・ユレルさんのCDです。舞台上の会話とフルートが、まるで観客席で聞いているかのように録音されています。これを聞いて非常に興味深かったのは、詩の朗読のようなフランス語とフルートの響きが驚くほど調和しているということです。あたかも詩とフルートが二重奏を奏でているかのようです。フランス語の鼻に抜ける鼻母音と柔らかな子音がフルートのソノリテと「シランクス」のアーティキュレーションにピッタリです。フランス語の響きをイメージしながら吹くといい感じになりそうですね。やっぱりフランス語か〜。ラルデ先生もフランス人にフルートの名手が多いのはフランス語のおかげだと言っていたことを思い出しました。ムラマツのDVDで「シランクス」をレッスンしているニコレが、「詩的なソノリテ」を探すようにって言っているのはこのフランス語の詩の響きも関係があるのだろうか?(ちなみにこのDVDは非常に勉強になります。一見一聴の価値があります。) さあ、日本語の私たちはどうしたらいいのか、とも思いますがフランス人以外でも素晴らしいフルーティストはたくさんいるし、フランス人以外の印象的な「シランクス」のCDもたくさんあります。英語圏のフルーティストが吹く「シランクス」、日本語の「シランクス」、ドイツ語の「シランクス」(あまり録音されていないようですが)など比べてみるのも楽しいと思います。皆さんは何語の「シランクス」の響きがお好きですか?

ドビュッシーは、 自分の作品の演奏にあたっての指示を全て楽譜に書きました。そして、それが忠実に守られることを非常に強く願っていたそうです。また、ドビュッシーの前で 「シランクス」を演奏したことがあるモイーズは、ドビュッシーが「私が書いた通りに演奏してください。私と共同作業をしようと思わないように」と言っていた、と述べています(「フルートの巨匠 マルセル・モイーズ」 トレバー・ワイ著)。また、ドビュッシーは「物事を半分だけしゃべって、残りの半分は聴いている人の想像力に任せるような音楽を書きたい」とも言っていました(「指先から感じるドビュッシー」 青柳いづみこ著)。様々な「シランクス」の楽譜が出版されています。1927年に「シランクス」を初出版したジョベール版、これにはモイーズによるブレス記号が付け加えられています。さらに、先ほど述べた「プシシェ」の「シランクス」に対応する詩、その他の資料が独語、仏語、英語ですが詳しく書かれたユニヴァーサル版など。どの楽譜を選ぶとしても、楽譜に書かれた指示を注意深く読み込むことは大切です。そして、それにあなたの色、響きのイメージ、想像力をひと匙加えて「あなたのシランクス」を吹いてみませんか?

森岡広志


桐朋学園大学に入学。林リリ子、小出信也の両氏に師事。1976年渡仏。ヴェルサイユ国立音楽院に入学し、J.カスタニエ氏に師事。1979年同院を金賞で卒業。1981年パリ・エコ−ル・ノルマル音楽院に入学。C.ラルデ氏に師事。1983年演奏家資格を得て卒業。この間、サンマキシマン音楽祭、サンポ−ルドヴァンス音楽祭、他フランス各地で演奏会を行った。1987年よりメゾンラフィット音楽院教授を勤め、1988年に帰国。ムラマツ・フルート・レッスンセンター講師。