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ドビュッシー没後100年特別企画〜シランクス〜

第1回 ドビュッシーとは何者か
光と影の作曲家 ドビュッシー誕生…世紀末
パリ 1867〜1918

19世紀初頭ナポレオン1世統治後のパリは、1848年、二月革命を経て王政、共和政、帝政、が交互に入れ替わり、さらに普仏戦争(フランスとプロイセン)ではパリが包囲され、パリ・コミューンの乱が起きる。収まるとすぐに世紀末の絢爛たる文化の華が咲き乱れ、一方で19世紀の産業革命により現在の主要鉄道網が作られ、自動車が登場し、エッフェル塔が天を仰ぐ。20世紀には、様々な異国の文化が流入、そして第一次世界大戦では再び軍隊がパリに迫る。パリの街の概要は、ルイ14世時代(17世紀)に形作られ、ナポレオン1世の都市改造時に出来上がった。さらに1841〜44年にかけて建造されたもう一回り大きくパリを取り囲むティエールの城壁ラインが、現在のパリ市の外郭ラインとほぼ一致する。1929年までパリは、城壁で守られた巨大な城塞都市だった。

貧困と優雅

ドビュッシーは、パリ近郊のサン=ジェルマン=アン=レイで1862年8月22日に生まれた。家は貧しい瀬戸物商で、小学校にも通っていない。1867年、5歳の時、商売に失敗した一家はパリに引っ越すが1870年に普仏戦争が勃発、この頃、南仏カンヌで優雅な生活を送っていた裕福な叔母クレマンティーヌの家にしばらく滞在し、そこでピアノ教師チェルッティから手ほどきを受ける。カンヌでの生活は、優雅で、温暖な気候の心地よさと、海の風景とバラの香りにつつまれ、次第に上流階級の世界に心をときめかせ始める。パリに戻り、本格的にピアノのレッスンを受ける。先生は、裕福で優れたアマチュアの音楽家であり、定かではないが、ショパンの弟子と言われるモーテ・ド・フルールヴィル夫人、娘の夫は、詩人ヴェルレーヌ。モーテ夫人のもとでの研鑽で、一年後、1872年10歳でパリ音楽院のピアノ科マルモンテルのクラスと、ソルフェージュのクラスに入学。もちろん貧困家庭のドビュッシー家にピアノなど無かったのだが…。

パリ音楽院

ドビュッシーの通ったパリ音楽院(Conservatoire de Musique et de déclamation 音楽・演劇学校)の当時の学長は、アンブロアーズ・トーマで、現在、この建物は国立高等演劇学校になっている。音楽院の方は、1946年に演劇科と分離してパリ国立高等音楽・舞踏学校(私が学んだパリ国立高等音楽院 Conservatoire National supérieur de Musique de Paris)になるのだが、私が通っていたパリ音楽院の建物は、1911年に、当時の学長フォーレがマドリッド通りに移転させた校舎で、1990年には現在のラ・ヴィレットの校舎に移転した。
面白いのは、ドビュッシーの時代も、私の時代も、現在も、試験の法則-システムが変わらないという事。2000年以後は若干変更されたが、まず卒業は、一等賞(プルミエ・プリ)を取らなければならない。二等賞は、単なる修了除籍、賞無し(リァン)は追放になる。ただし試験は3回まで受けられる。入学試験も同様で、何でも「3回まで」が鉄則だ。
まだ義務教育のシステムが確立されないドビュッシーの時代には、10歳でパリ音楽院入学が可能だったのだろう。パリ音楽院の卒業試験は、公開で行われ、新聞評が出るが年度末試験も同様で、1875年の年度末試験には第一褒状(よくできました賞?)を得て、新聞評で「神童」と書かれている。しかしその後の卒業試験では1877年、やっと二等賞を得るにとどまる。ソルフェージュは、全ての項目で優秀で1876年に一等賞を取っている。1877年秋にエミール・デュランの和声法のクラスに入学するが、1879年、一等賞を取るために続けたピアノ科の卒業コンクールと和声法の3回目のコンクールで何も取れず(賞無し)、両科とも除籍追放になる。そこで、この前年設立された伴奏科に入学。初見、即興、ソルフェージュというドビュッシーの最も得意とする能力が発揮できる分野であり、1年で簡単に一等賞を取った。本来、和声法で一等賞を取らなければ作曲科は受験できないのだが、この伴奏科の一等賞で受験できるようになり、ギローの作曲のクラスに入る。本格的に作曲家を志すようになったのだ。

ローマ大賞
1884年の肖像画

そうなれば目指すはローマ大賞だ。ローマ大賞とは、フランス政府による奨学金付留学制度で、音楽の他、建築、絵画、彫刻、版画の各分野から選出される。音楽は、作曲が対象。設立したのはルイ14世。ルイ14世がパリの原型を作るにあたって考えたのはフランスにローマを創る事であり、ナポレオン1世の都市改造も、ローマを目指していた。街は、そこに建築の他に絵画や彫刻、音楽が人々と一体になってこそ繁栄するという考えで、想いは全てローマを向いていた。大賞を取るとローマにあるヴィラ・メディチ(トスカーナ大公メディチ家所有だった建物)に留学し作品を創作する。経済支援は5年間、兵役免除、旅行費用の補助、作品発表の機会が約束され、パリ市内の文化施設は無料で使用できる。そして、まさに有名作曲家への登龍門だった。予選はパリ音楽院の教授陣による課題審査だが、本選は、フランス芸術アカデミーによる審査となる。ドビュッシーはこれまた3度目の挑戦で1884年、カンタータ「蕩児(とうじ)」で大賞を受賞する。

実は…

ドビュッシー家は常に経済的に困窮した状態だった。父親は仕事がうまくいかず、パリ・コミューンの後で投獄され、働き手はまだ十代のドビュッシーのみという時期もあった。そのため、生活費のために音楽院に通いながらアルバイトに精を出していた。当時のピアニストのアルバイトは、貴族の末裔や、産業革命で財を成した富裕層のピアノ教師や、彼らの催すパーティーなどで演奏する専属の楽師といったところで、レコードや蓄音機が社会に普及する少し前の時代の「リアル蓄音機」役であった。そこには上流社会の優雅な世界があり、それとは反対側の貧困層のドビュッシーにとっては、全くの別世界、だが同時にすぐ手に届く、しかも自由に入っていける世界だった。パリ音楽院のピアノクラスの除籍追放は、一線のピアニストの道を閉ざされた事に他ならず、同じ様な方法で生きていくために作曲科への入学を考えたのではないか。しかも作曲が自分の心を熱くし、のめりこめる世界だという想いがつのれば、今度こそはローマ大賞の作曲家として楽壇に登場する事が頭をよぎっていたのではないか。ローマ大賞でとりあえず5年は生活できる…。

ローマの休日

ローマ大賞の受賞は、作曲の師であるギローからの助言で、賞がとりやすいように自己の作曲スタイルを曲げ、グノーやマスネ風に書くことで得た賞でしかなく、ローマでの日々はドビュッシーには窮屈な休日だった。それでもパレストリーナやラッソなどのルネサンス音楽に触れ、その均整の取れた構成に心を震わせ、リストのコンサートでそのテクニックに歓喜し、ローマ大賞仲間の絵画からインスピレーションを得る日々を送る。

『オレは、印象主義か???#☆!』

ドビュッシーは1887年パリに戻る。そしてローマ留学作品としてアカデミーに提出したのが「春」。アカデミーはこの作品を、「受け取り拒否」した。理由は「オーケストラ作品をFis-dur(嬰ヘ長調シャープ5つ)などバカげている」、「曲の形式がはっきりしない」、「印象主義のように漠然としている」、したがって芸術作品の意味をなさない。特に否定的だったのはサン=サーンスだった。絵画における「印象派」という言葉は、1874年モネの「印象・日の出」という絵の題名になぞらえ、モネ、セザンヌ、ドガ、ルノアールらの新しい手法の絵画に対して「輪郭がぼやけてスケッチ程度のものだ」という当時の風刺新聞での酷評において、彼らを嘲笑的に「印象派・(笑)」(当時の新語大賞!)と呼んだのが始まり。ドビュッシーが「春」を提出した1887年頃にはすでに絵画界では斬新で自由な活動グループの名称として定着していたが、極めて保守的なアカデミーにあっては「バカにする言葉」として使っていたのか。あるいは革新的なものを理解できない事による恐怖感から出た「攻撃」だったのか。いずれにしろ、かくして音楽における「印象主義(笑)」の作曲家ドビュッシーが(アカデミーによって)誕生する(させられた)。技法的にも創作コンセプト的にも絵画の印象派とドビュッシーは関係ないのだが…。




ドビュッシーのフルート作品は、シランクス、ビリティスの歌(2Fl,2Hp,Célesta,Récitant)、ソナタ(Fl,Va,Hp)の3曲、勿論牧神の午後への前奏曲もフルート奏者にとっては重要な作品だ。
次回からは各作品と作曲背景、時代背景などを書いていきたい。
まずシランクス、楽曲分析と演奏解釈、具体的な演奏法などを2回にわたって書く予定。


加藤 元章

桐朋学園を経てパリ国立高等音楽院入学、同音楽院を一等賞で卒業。ブダペスト、プラハの春国際コンクール入賞、アンコーナ、マリア・カナルス、ランパル国際コンクールで2位、マディラ国際フルートコンクール優勝。以来国際的に活躍。2001年、日本人フルーティストとして初めてウィーン楽友協会ブラームス・ザールでのリサイタルを行う。CDは”プレミアム・セレクション”と”アート・オブ・エクササイズ”シリーズ等16タイトルをリリース、「現代作品集T”夜は白と黒で”」は文化庁芸術作品賞を受賞。2005年のイサン・ユンのフルート協奏曲の韓国初演は、韓国KBS MediaからDVDがリリースされている。

第1回目/
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