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ドビュッシー没後100年特別企画〜シランクス〜


第6回 最後の命の炎を燃やして
憂鬱と情熱と戦争と

1909年頃、ドビュッシーは体調の不良を感じていた。最初の自覚症状は下血と腹痛だった。シランクスが書かれた1913年頃の音楽界は、1909年にシェーンベルクが12音技法の前段階ともいえる無調音楽の「管弦楽のための5つの小品」を作曲、1910年からはロシア・バレエ団(バレエ・リュス)とストラヴィンスキーがパリに乗り込んでくる。1910年「火の鳥」、1911年「ペトルーシュカ」、1913年「春の祭典」のパリ初演は全てセンセーショナルな成功を収めた。ドビュッシーも、シランクスを作曲した1913年にはロシア・バレエ団を率いるディアギレフからバレエ曲「遊戯」の作曲を依頼されるが、この頃ドビュッシー家は経済的に困窮していた。収入は若い頃に比べれば50倍にもなったが、高額な借金が返せず体調が悪化する中、演奏旅行で稼がなければならなかった。そして1914年7月28日には第1次世界大戦が勃発、8月3日にはドイツ軍がフランスに侵攻を始め、ドビュッシー一家はロワール地方のアンジェに疎開する。体調はさらに悪化する。

ドビュッシー(1909年)

しかし、そんな中で最後の命の炎を燃やす様に、6曲の室内ソナタの作曲を始める。最初にチェロとピアノのためのソナタ。これは1915年の7月から8月にかけてフランス北部ノルマンディーのプールヴィル滞在中に書き上げた。2曲目がフルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタで、チェロ・ソナタを書き上げた直後の9月末から10月に書き上げられた。11月26日には直腸がんと診断され、12月7日に手術を受ける。ソナタの3曲目はヴァイオリンとピアノのためのソナタ。これは1916年から1917年に書かれたが、この頃にはかなり衰弱していた。そしてこれが最後の作品となった…。
完成した3曲のソナタの基本的コンセプトは、楽譜上から、古典様式以前、中期バロック頃までの音楽を意識した作品であることが分かる。まず題名。ここでは、初期のバロック音楽のようにカンタータに対する器楽曲全般としてのソナタの意味合いを持つ。リュリやクープランの作品を思わせる雰囲気を持ち、バロックの装飾音形を内包するモチーフがちりばめられている。形式としてのソナタの構成が確立される以前(コレルリ以前) のバロックをイメージした作品で、ドビュッシー自身の言葉によれば「優雅で、4楽章形式のように聞く側の努力を強要しない、わが国の古いスタイルで」書いた「私たちの古きクラヴサン音楽家たちの深遠な優雅さ」に思いを馳せた作品。「6曲」というのも、そういったバロック期の慣例の模倣だ。出版するデュラン社に対し、次の6曲の計画を伝えていた。

  1. チェロとピアノのためのソナタ
  2. フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ
  3. ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
  4. オーボエ、ホルンとクラヴサンのためのソナタ
  5. トランペット、クラリネット、バスーンとピアノのためのソナタ
  6. コントラバスと各種楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルン、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープ、ピアノ、クラヴサン)のためのコンセール形式のソナタ

このうち完成出来たのはヴァイオリン・ソナタまでの3曲。

フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ
「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」初版の表紙

このソナタは、一般的には、1915年9月から10月に書かれたとされているのだが、このことについては一つ疑問点がある。それは、自筆譜(パリ音楽院所蔵印の有る)の表紙相当のページと最後に、「夏 1915」と書き記されているからだ。一方、ドビュッシーは、出版者ジャック・デュラン当ての手紙(1915年9月16日付)でチェロ・ソナタの次の作品となる「フルート、オーボエ とハープのためのソナタのスケッチを昨夜書き終えた」と書いている。そしてその封筒には、追伸として「他のソナタは、フルート、ヴィオラ、ハープあるいはヴァイオリン、コールアングレ、ピアノ?」とも書いてある。「夏 1915」という自筆譜最終稿の日付が、スケッチ段階を書き始めた時期を意味するのであれば、作曲はチェロ・ソナタと同時進行していた事になる。そしてオーボエを使う予定だった最初のスケッチとヴィオラに変わって完成された最終稿は、根本的にはほぼ同一の物、おそらくフレーズ構成などは変化していないのではないか。出来れば最初の構想の、オーボエを使うつもりだったスケッチを見てみたいものだが、今のところ見ることが出来ていない。ドビュッシーは、10月12日にプールヴィルからパリに戻り、自身でデュランに楽譜を届けている。9月15日以降でオーボエをヴィオラに変えたわけで、かなり急いで書き換えたようだ。

初演
ジョーダン・ホール
(ニューイングランド音楽院/ボストン)

初演は曲の完成から1年後、1916年11月7日、アメリカ合衆国ボストン市のニューイングランド音楽院ジョーダン・ホール(Jordan Hall)で行われた。演奏は、ロンジー・クラブ(Longy Club)というアンサンブルグループによるもので、フルートはアーサー・ブルック、ヴィオラはフロリアン・ヴィットマン、ハープはセオドア・セラによる演奏。曲が書き上げられた1915年はパリに戦火が迫ったが、アメリカの参戦は1917年で、この頃は戦争の影響はまだ無かった。
Longy Clubは、ボストンシンフォニー(BSO)の首席オーボエ奏者、ジョルジュ・ロンジーによって設立された管楽アンサンブル。ジョルジュ・ロンジー(Georges Longy 1868〜1930)は、アブヴィル(北フランス)生まれのフランス人で、パリ音楽院を18歳(1886年)でプルミエ・プリ(1等賞)で卒業、コンセール・ラムルーやコンセール・コロンヌのオーボエ奏者となり、1898年にBSOの首席奏者としてボストンに渡った。そしてBSOの木管楽器メンバーを中心に設立したアンサンブルがロンジー・クラブ。ジョルジュ・ロンジーはボストンにロンジー・スクールという音楽学校を創立、ボストン市は、これをロンジーの最大の貢献として讃え、現在ニューイングランド音楽院と並び、音楽の専門教育を担っている。

Boston Symphony Orchestra

1881年に設立されたBSOは、実はアメリカのオーケストラの中でも特殊な存在。一般的には、設立初期はドイツ系の音楽を信奉した指揮者が多かったが、1919年ピエール・モントゥーの指揮者就任からフランス的なオーケストラに変わる…と評価されるのだが、木管楽器に関して、これは全く当てはまらない。フルートは初代の首席奏者エドヴァルド・ハインドルこそドイツ人だが1887年に首席奏者に就任したシャルル・モレ以後、1952年のドリオ・アンソニー・ドワイヤーが首席奏者に就任するまで65年間全員パリ音楽院出身のフルーティストが首席を務めてきた。さらにオーボエの首席奏者は、1887年からのサンテ以後1946年まで(4代)がパリ音楽院出身、クラリネットの首席奏者は、1894年からのプールトウ以来1930年までイタリア人とロシア人がそれぞれ1年間ずつ演奏しているが、それ以外の5人はパリ音楽院出身者。特に1898〜1901年の首席奏者セルマーは、兄と共にあのセルマー社を作るセルマーである。
このようにBSOはパリ音楽院の大輸出先で、木管セクションは設立直後から長い間、ほぼフランスのオーケストラだった。

初演の話に戻そう

ボストンでの初演の後、1916年12月10日にパリでの初演となる。会場は楽譜の出版元であるデュランの本社。フルートはアルベール・マヌーヴリエ、ヴィオラはダリウス・ミヨー(作曲家のミヨー)、ハープはジャンヌ・ダリエ。フルートのアルベール・マヌーヴリエは、パリ音楽院でエヌバンに師事、ルイ・フルーリーと共にケックランの2本のフルートのためのソナタを初演している。オペラ・コミックでは、ガストン・クリュネルの2番フルートを務めた。このコンサートでは、クロマティック・ハープが使用された。クロマティック・ハープは、1894年に開発され、プレイエル社が販売し、ドビュッシーは、プレイエル社からの依頼で1904年にこの楽器のために「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」を書いている。1917年2月2日にはロンドンでのイギリス初演が行われた。

シランクスとアウロス(改めヴィオラ)とリールのためのソナタ ?

曲は3つの楽章から成る。
第1楽章「牧歌」(Pastorale)。最初のテーマは、ハープによる繊細な響きのアルペジオで始まり、この響きに同化するようにフルートが加わる。フルート・パートだけで見てみると相変わらず音域的に第1オクターヴを中心として、上行して2オクターヴ目に入るとすぐに1オクターヴ目に潜りたがる。各楽器の、特徴的な「静」と「動」のメロディーを巧みに繰り返し、それぞれの有機的な対話をくりひろげながら曲は進み、最初のテーマに戻り、静かに優しく曲は止まる。音形的には前奏曲集第2集の第5曲「ヒースの茂る荒れ地」に見られるモチーフの変形したものが幾つか使われている。
第2楽章「間奏曲」(Interlude)は、「メヌエットのテンポで」という指示が書かれている。この曲では、特にバロック風の装飾音形を、楽譜として書き込んでいる部分が多く見られる。
第3楽章「終曲」(Final)は、一変して緊迫感に満ちた曲想で始まる。冒頭の速い速度のモチーフは、途中、拡大形に変化してトッカータ風の曲想に変わり、加速して表現を昂らせ、一気に収束すると第1楽章のテーマ3小節が曲全体の回想のように現れる。そして、一撃のヴィオラのピチカートを合図に第3楽章のテーマが再現し、曲を締めくくる。このヴィオラの一撃には、第4回「楽譜の謎解きと演奏のための勇気」で書いたアクセントと marqué が同時に書かれている。
ビリティスの歌が古代ギリシャをイメージしていたとすれば、楽器編成はパンのシランクスとオルフェウスのリール(竪琴)とクロタルをイメージして書いたのかもしれない。このソナタは、最初の構想のフルート、オーボエ、ハープによる楽器編成なら、シランクスとアウロス(あるいはショーム)、リールのイメージなのかもしれない。
ソナタ形式は、ベートーヴェンによって練り上げられ、ロマン派以後その形式に依存して、20世紀初頭に至った。ドビュッシーは古典的な機能和声からの解放により、より古い(ルネサンス以前の)様々な旋法を復活躍動させたが、このソナタでは、初・中期フランス・バロックの、リュリやクープランの世界をイメージしたことで、ベートーヴェン以後続いたソナタ形式を、「形式論」から再び解放した初めてのソナタといえるだろう。

1918年3月25日 フランスの音楽家クロード・ドビュッシー没

第一次世界大戦という、長く、凄惨な戦争の中で、病と闘いながらも国のために戦争に出ることを考え、しかし当然そんなことは体力的に無理で、それでも傷つく人たちのために音楽家として何らかの形で尽くそうと、負傷した軍人のためのコンサートを幾つも行ない、死んで行った若い兵士達のために2台ピアノのための「白と黒で」を作曲。日々衰える体力と、症状の悪化と闘いながら、フランス人としての誇りとフランスの音楽家としての強い自覚を主張するかのように、フランス・バロックへの回帰を思わせる「ソナタ」の創作に最後の命の炎を燃やした。ドビュッシーのピアノ曲の初演を数多く手がけた名ピアニスト、リカルド・ヴィニェス(プーランクのピアノの師)は、ドビュッシーの最後の病床に寄り添い「ピアノのためのエチュード」を静かに弾いて聞かせたという。

*       *       *

これで没後100年特別企画〜シランクス〜を終えます。長い間ありがとうございました。

ドビュッシーに関する研究や、記述は世の中にたくさんあります。ただ、フルート作品に関するものは少なく、念のため裏付けを取っていくと、解説などでかなり間違った記述もまかり通っていることも分かりました。普段見逃すようなことを色々調べていく内に意外な発見があったりと、なかなか充実した(結構つらい)時間を過ごせました。
では、 Au revoir !!


サン=ジェルマン=アン・レーのドビュッシーの生家。現在1階は観光案内所、2階は写真や愛用品などが展示されています。

 

<楽譜の紹介>
ドビュッシー/フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ

≪デュラン版≫
楽譜ID : 7662

 

≪ヘンレ版≫
楽譜ID : 30627

 

加藤 元章

桐朋学園を経てパリ国立高等音楽院入学、同音楽院を一等賞で卒業。ブダペスト、プラハの春国際コンクール入賞、アンコーナ、マリア・カナルス、ランパル国際コンクールで2位、マディラ国際フルートコンクール優勝。以来国際的に活躍。2001年、日本人フルーティストとして初めてウィーン楽友協会ブラームス・ザールでのリサイタルを行う。CDは”プレミアム・セレクション”と”アート・オブ・エクササイズ”シリーズ等16タイトルをリリース、「現代作品集T”夜は白と黒で”」は文化庁芸術作品賞を受賞。2005年のイサン・ユンのフルート協奏曲の韓国初演は、韓国KBS MediaからDVDがリリースされている。

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