スタッフおすすめ「シリーズ」

このコーナーでは、ムラマツのスタッフが、長年の経験から「これは!」と思う楽譜を、その目的や内容の解説付きでご紹介します。
定期的にご紹介する楽譜を更新して行きますので、皆様の目的に応じた「使える」楽譜が見つかることと思います。

忘れられたコンクール用小品

忘れられたコンクール用小品

ジュール・ムーケ(1867-1946)は《パンの笛(フルート・ソナタ)》 Op.15 (1906年)が有名で、フルーティストには名が通った作曲家ですが、残念ながらその他の曲は現在耳にする機会が多くありません。彼は商人の息子としてレ・アール(中央市場)に近いパリ1区で生まれましたが、早くから音楽に興味を示し、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)の和声のクラスにおいてはグザヴィエ・ルルー(1863-1919)に、作曲のクラスにおいてはテオドール・デュボワ(1837-1924)に師事しました。1896年にカンタータ《メリュジーヌ》にてローマ大賞を受賞。1913年より1927年まで母校の和声の教授を務めました。
《エグローグ》は1909年にコンセルヴァトワールのフルート科のコンクール用小品(卒業試験課題曲)として作曲され、いわば《パンの笛》の「続編」となっています。献呈先は当時のフルート科教授、エヌバン(1862-1914)で、彼が教授に就任して最初のコンクールでした。
「エグローグ」という言葉は訳すと牧歌、田園詩となりますが、語源は古代ギリシャ語で初出はラテン詩人のウェルギリウスになり、古典古代に思いを馳せる点で《パンの笛》と共通しています。冒頭には《パンの笛》の時と同じく詩の引用が掲げられています。やはり田園詩で有名な古代ギリシャの詩人テオクリトスのエピグラムの引用です:「ねえ君、ミューズの名において、君のアウロス(二本笛)で我々に甘美な調べを演奏してくれないかい?」
この曲は3つの主題からなり、第一主題は3連符によって田園を駆け抜ける一陣の風を模倣したパストラール主題です。第二主題は《パンの笛》の第二楽章にも見いだされる「マリンコーニコ」の表情指定のついた、東洋風の響きを持つ抒情主題。第三主題はオクターブの跳躍を契機とした軽快で動的な主題、これらの組み合わせと転調により一つのタペストリーの如く織り上げられ、最後は第一主題がつむじ風のようになり熱狂の内に幕を閉じます。(2016年6月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品2

ジュール・マゼリエは1879年に生まれ、1959年に没したフランスの作曲家です。パリ音楽院(コンセルヴァトワール)にて作曲をルネヴーとフォーレに師事。1879年と言えばゴーベールと生まれた年が同じで、ゴーベールが1905年にローマ大賞一等賞の次席を取ったのに続いて、1909年にローマ大賞一等賞をカンタータ《ルサルカ》にて受賞しました。この時二等賞を取ったのはハーピストとしても有名なマルセル・トゥルニエでした。前年度1908年には教育者ナディア・ブーランジェ、翌年1910年には理論の大家、ノエル・ギャロン、指揮者として活躍したポール・パレ―の名が見え、錚々たる顔ぶれが並んでいますが、その間に挟まれてしまった不運とでも言いましょうか、マゼリエの名前はぱっとしません。1918年から1922年まではオペラ=コミックの指揮者を務め、1928年より1952年まで母校で教鞭を取りましたが、1930年のコンセルヴァトワールのクラス写真にて、声楽科のソルフェージュ・クラスの教授として写っています。
1930年代に彼はコンクール用小品をいくつか作曲しています。今回のディヴェルティスマンと同年(1931年)にはバソン(フランス式ファゴット)のために《プレリュードとダンス》を、1936年にはクラリネットのために《ファンタジー=バレエ》といった具合です。残念ながら彼の作曲スタイルには目新しいところはなく、彼が時代に埋もれてしまった原因の一つとなりましたが、逆に言うと穏健な作風であり、ヴァイオリン等に比べると古典派、ロマン派のレパートリーの積み重ねが少ないフルートにとっては貴重なクラシカルなレパートリーとなることでしょう。
《ディヴェルティスマン・パストラル(田園喜遊曲)》は当時のフルート科教授、ゴーベールに献呈され、他のコンクール用小品にもれず、緩急の二部構成となっています。前半がアンダンテ、主題は流れるような分散和音に乗った息の長いタイトル通り田園風の旋律が特徴です。後半はアレグレット・モデラートで、伝統的なリズムにはのっとっていませんが、半音階や分散和音で目まぐるしく旋回する様は、雰囲気としてはタランテラに近いものがあります。サイレンのようなピアノのユニゾンによるトリル持続音が契機となり、七度の落下エネルギーをもとに旋回が始まり、こちらが後半の主題となっています。一度旋律が登りきったところでジェットコースターの落下運動のような動きをして小さなカデンツァを終えると、嬰ヘ長調に転調し再び主題が始まります。その後さらにタランテラの旋回は展開され、大きなカデンツァ、主題の再提示、すこし遅くなって(ジェットコースターの急降下直前の緊張感)、最後四分音符138のスピードで駆け上がって終焉を迎えます。1931年のコンクールで一等賞(プルミエ・プリ)を受賞した4人のうち、3人は大きな業績を残しませんでしたが、残る一人がアンドレ・ジョネでした。彼は後にスイスで活躍し、オーレル・ニコレやペーター=ルーカス・グラーフをはじめ日本人を含む多くの奏者を育て、フレンチ・スクールを国際的に広めたことはご存知の通りです。(2016年10月記)(M.N)

忘れられたコンクール用小品3

ルイ・オベールはブルターニュ地方で現在サン・マロ市の一部となっているパルメで1877年に生まれました。子供の頃から歌が上手で、音楽の才能を感じ取った両親のおかげでパリに行き、マドレーヌ寺院の聖歌隊の一員となりました。1888年のフォーレの《レクイエム》の第一稿の初演の際、〈ピエ・イェス〉のソロを任されたほどでした。1887年に彼はコンセルヴァトワール(パリ音楽院)に入学し、ピアノをルイ・ディエメルに、和声をアルベール・ラヴィニャックに、伴奏法をポール・ヴィダルに、そして作曲をフォーレに師事しました。オベールはピアノでも頭角を現し、1911年に名前を伏せて初演され作曲家名を当てる実験が行われたことで有名なラヴェルの《高雅で感傷的なワルツ》の初演を行い、作品を献呈されたことでも知られています。彼は母校で教鞭をとる傍ら、1956年にギュスターヴ・シャルパンティエの後を継いでフランス学士院(音楽アカデミー)のメンバーとなりました。彼の代表作はペローの童話を元にしたオペラ《青い森》や、管弦楽のための《シャトーブリアンの墓》などがありますが、ミュージック・ホールの歌手のためのポピュラー・ソングも作曲しています。
ルイ・オベールの作風は、当時盛んになった生地ブルターニュのナショナリズムから距離を置き、最初フォーレ、次いでラヴェルの影響を受け、旋法を多用しています。《序奏とアレグロ》は1922年のコンセルヴァトワールのフルート科のコンクール(卒業試験)のために作曲されました。当時の教授であったフィリップ・ゴーベールに献呈されています。オベールは1917年から1919年にかけて《6つのアラビアの詩》を作曲し、1919年の夏にゴーベールの指揮でオーケストラ伴奏版の初演がなされており、そういった縁もあって作曲の依頼が来たのでしょう。タイトルの通り二部に分かれており、前半の緩と後半の急というコンクール用小品の一般的なスタイルです。《アラビアの詩》は当時のフランスにおける東洋趣味を反映していますが、《序奏とアレグロ》にもその残り香が引き継がれ、冒頭において旋法的な主題がフルートによって提示されます。「序奏」部はこの主題を元にした一種の長大なカデンツァと言っても良いでしょう。後半はアレグロの通り軽快な主題で広い音域を駆け上がったり下がったりして、拍の頭に休符があって音楽がほとばしるような音型が多用されます。クライマックスには序奏のテーマが回帰し、音価が引き伸ばされて朗々と歌い上げられ、コーダではさらにテンポが上がって一陣の風が過ぎ去るように締め括られます。
《序奏とアレグロ》の初演ともなった1922年の試験で一等賞(プルミエ・プリ)を取ったアルフォンス・カルパンティエとジャン・デュボスはその後それほど有名にはなりませんでしたが、二等賞でロジェ・コルテ、リュシアン・ラヴァイヨット、フェルナン・カラジェといった錚々たるメンバーが入賞しました。(2017年2月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品4

アレクサンドル・ジョルジュは1850年、フランス北部のアラスで生まれ、同地で1938年に亡くなった作曲家です。フォーレも勉強したニデルメイエール宗教音楽学校で学び、フランクがオルガニストを務めたサント=クロチルド教会の楽長を務めた後、1899年より1928年までサン=ヴァンサン=ド=ポール教会のオルガニストを務めました。よってフランクの影響を受けています。教会に勤めた作曲家らしく、2巻からなるオルガン作品集《小教区の歌》や《受難曲》、《ルルドのノートル・ダム》といったオラトリオを残しますが、それだけでなく劇場にも興味を持ち、中国をテーマにした一幕の《春》、タロットカードのお告げにより女王になると運命付けられたロマの少女の物語《ミアルカ》などのオペラを残しました。そしてこれらのオペラの主題を見ても分かるように、地方色溢れるダンスや旋律を作品に取り入れました。
今回取り上げる《ア・ラ・カスバ!(カスバにて!)》は1911年のコンセルヴァトワール(パリ音楽院)のフルート科のコンクール(卒業試験)のために作曲され、当時の教授エヌバンに献呈されています。カスバとはアルジェのカスバで有名ですが、北アフリカ(マグレブ)の城塞を起源とする伝統的な街並みのことです。青い海と空を背景に、海岸線から山の手にかけて張り付くように広がるアラブの伝統的で異国情緒あふれる家々に、路地が迷路のように入り組んだ町、まるで映画に出てきそうな情景です。当時アルジェリアはフランスの植民地でしたので、フランス人にとっては訪れやすい場所で、その異国情緒が多くの人を引き付け、サン=サーンスも何度も旅行し《アルジェリア組曲》を作曲したほどです。フランスにおける東洋趣味は19世紀末に始まったわけではありませんが、交通の発達等によりフランス人が実際に東洋を訪れたり、現地の文物がフランス国内で流通したりするようになったこの時代に再び大きな波となります。
第一主題は叙情的で旋法的なアラブの主題が朗々と歌われます。低い音域ですので、カスバの迷路のように入り組んだ街路のミステリアスな雰囲気が醸し出されます。主題が二度繰り返され、カデンツァの後第二主題が始まります。こちらは旋回するような情熱的なダンスです。第三主題は第二主題の変形で旋回のダンスがゆっくりとなり、スーフィズムのダンスでスカートのすそがひらひらと舞っているような円弧を描きます。第二主題が回帰し、展開された後、第一主題が一オクターブ上で決然と再現されます。転調し、短いカデンツァの後、第二主題、しかし今度はフルートがピアノに代わってリズムを刻み、そのエネルギーで駆け上がって長めのコーダに入ります。さらにダンスは激しさを増し、途中一陣の風が吹き抜けたような涼しげな旋律で火照りが冷まされますが、またすぐに元のテンポに戻って熱狂のうちに締めくくられます。
コンクール用小品では緩急の二部形式になり、「序奏とアレグロ」といった味気の無いタイトルになることが多いですが、《ア・ラ・カスバ!》では叙情的な部分とテクニカルな部分がバランスよく有機的に配置され、またその視覚的にイマジネーションをかきたてるタイトルのおかげで、コンサート・ピースとしても遜色ない作品となっています。(2017年6月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品5

フランソワ=ジュリアン・ブランは作曲家というより、フルート奏者、吹奏楽ファンの方ならばギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の楽長としての指揮姿でなじみがあるかもしれません。1961年には同楽団と来日しています。ブランはリヨンの南西、サン=テティエンヌにて1909年に生まれました。コンセルヴァトワール(パリ音楽院)においてゴーベールやモイーズに師事し、1928年に卒業コンクールで一等賞を取りました。その時のコンクール用小品はゴーベールの《バラード》でした。また、同時に一等賞を取った同期の一人が、後にスイス・ロマンド管弦楽団の首席奏者として活躍したアンドレ・ペパンでした。ブランはフルートだけでなく、和声や対位法などの作曲書法(エクリチュール)のクラスにも所属し、一等賞を得ました。そのことが今回の作曲につながっています。1937年頃には既にギャルドのフルート奏者として活躍していましたが、1945年から1969年まで楽長を務めました。その後も客演指揮者として様々なオーケストラで活躍しました。
 《アンダンテとスケルツォ》は1948年の卒業コンクールで取り上げられましたが、1945年の出版です。モイーズに献呈されています。1948年当時の教授はモイーズとクリュネルの二人体制でしたが、その後モイーズは辞職しましたので彼にとっては最後のコンクールとなりました。〈アンダンテ〉はメリスマ的な息の長い主題が特徴です。第一主題から少し変形された第二主題が展開され頂点を迎えた後、最初の主題に回帰して静かに終わります。〈スケルツォ〉は八分音符=180の中に三連符をスタッカートで入れていかなければならず、演奏者にとっては冒頭からトリプル・タンギングによるマラソンが始まります。少し変形された第二主題においても雰囲気は変わらず、53小節耐え忍んだ後に初めて伸びやかな旋律主題が現れ、光が見えます(ランナーズハイ?)。しばらく展開された後、第一主題に戻り、そのまま苦しい息の中マラソンを走りきるかのようにディミヌエンドで(力尽きて?)終わります。このコンクールで一等賞を取ったうちの一人がクリスティアン・ラルデで、二等賞の一人がペーター=ルーカス・グラーフでした。また、コンクールを受験した生徒にはイージー・リスニングの第一人者と知られるレイモン・ルフェーブルの名前が見えます。彼もモイーズの弟子でした。
ブランのフルーティスト、指揮者だけでなく、現在忘れられた作曲家という一面を再発見するきっかけになれば幸いです。(2017年10月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品6

ドゥメルスマン(1833-1866)の名はフルートを演奏される方には大変なじみがあるので、伝記的な説明は他に譲るとして、彼の作曲家としての面を見ていきましょう。
フルートのフレンチ・スクールに興味のある方には、1898年のフォーレの《ファンタジー》をもってコンセルヴァトワール(パリ音楽院)のフルート科の卒業試験(コンクール)における新作初演の伝統が始まることは有名ですが、コンセルヴァトワールはそれ以前より存在し、当然コンクールもありました。課題曲に関して、チュルー教授時代は自作の《ソロ》がほとんどで、アルテス教授時代は自作とチュルー作で半々程度、その間に挟まれたドリュス教授は……、どうやら彼は作曲が苦手だったようです。フルート・ソロのロマン派のレパートリーは少ないですが、演奏家と作曲家の垣根が低かった当時は、演奏家自らが作曲すれば解決ということで、コンセルヴァトワールの管楽器の教授の素養としては作曲能力が求められたのでしょう。挫折したものの作曲家の登竜門であるローマ賞にまで挑戦した若きドゥメルスマンが、コンセルヴァトワールの次の教授の座を見据えつつ良いポストに付くための実績作りとして作曲を行ったのは想像に難くありません。実際、今回取り上げる《演奏会用ソロ 第2番 変ホ長調》は1860年出版で、献呈先のドリュスの教授就任は同年ですから、アピールするつもりだったのではないでしょうか。残念ながらドリュス時代にはコンクールに取り上げられず、アルテスにより1891年の課題曲に採用されました。
曲はアンダンテ、アレグロ・ブリランテの二部からなります。前半アンダンテは劇的な和音の強奏に始まり叙情的な第一主題の対比、というオペラ全盛の時代を反映したスタイルです。短いカデンツァの後、第一主題が戻ってアタッカで第二部に入ります。後半アレグロ・ブリランテは6/8拍子のサルタレロです。冒頭の第二主題はそれほどテンポも速くなく、華やかなダンスですが、転調して中間部に入ると何やら雲行きが怪しくなり始め、旋回するような分散和音の旋律を繰り返してはどんどん早くなって一旦最高潮を迎えます。第二主題がエスプレッシーヴォで回帰し、ゲネラルパウゼの後第一主題も回帰して少し冷静になったかと思いきや、再び第二主題が始まり、コーダではプレストで踊り狂って劇的に締めくくられます。このコンクールで一等賞を取ったジュール・ヴェルスト(1866-1906、リール歌劇場)とルイ・バルロン(1869-1916、オペラ=コミック座)は共に早世してしまい、後世に大きな名を残すことはありませんでした。(2018年1月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品7

マルセル・ポートは1901年にベルギーのブリュッセル近郊で生まれ、ブリュッセル音楽院に学び、パリに出てエコール・ノルマル音楽院でデュカスにも学んだ作曲家です。1988年にブリュッセルで亡くなりました。1925年から5年間ほどフランス6人組のベルギー版のような作曲家グループ「レ・サンテティスト」の一員として活動しました。後に母校ブリュッセル音楽院の教授として和声や対位法を教え、1949年から1966年まで院長を務めました。作風はフランス6人組を受け継ぐ新古典的なスタイルと近代的、機械的なリズムの妙が特徴で、7曲の交響曲を残したシンフォニストであり、ベルギーの地理的な影響によりフランス風の叙情性とドイツ的な重厚さをあわせ持つという点からもオネゲルに近いものがあります。
《伝説》は1959年の卒業コンクール用に作曲されましたが、献呈先は当時のブリュッセル音楽院のフルート科教授、フランシス・ストーフとなっています。冒頭、ピアノの荘重な和音の連打の後、フルートが神秘的な第1主題を奏で、カデンツァに入ります。第2主題は打って変わって4分の3拍子と8分の3拍子の混合拍子による機械的なリズムの行進が始まり、20世紀後半の時代を感じさせる作風です。フルート・パートの方も半音階的でメカニカルな動きが続き、当時の典型的なコンクール用小品のスタイルです。リステッソ・テンポで第1主題に似たカンタービレ主題が登場しますが、所々伴奏では第2主題の混合拍子が顔を見せます。徐々にテンポを落とした後ヴィヴァーチェとなり、輝かしくも少しおどけた旋律でラストスパートをかけたかと思いきや、第1主題に回帰します。トリルでエネルギーをためた後、コーダはヴィヴァーチェで駆け抜けて終わります。3連符や8分音符3拍による上行音型が随所に現れ、性格の異なる主題を有機的に結びつけると同時に、音楽の推進力となっています。
1959年6月6日に行われたコンクールの一等賞をとった4人のうち、スイス出身のブリギッテ・ブクストルフはアンセルメ時代のスイス・ロマンド管弦楽団で首席奏者を務め、ベルンやローザンヌの音楽院で教鞭をとりました。フィリップ・ベンデルは後年指揮者として活躍し、カンヌ管弦楽団の芸術監督等を務めました。また加藤恕彦氏が1958年に渡仏、日本人フルーティストとして最初にパリ音楽院に入学し、1年間の勉学の後はじめて受けたコンクールでもありました。『加藤恕彦留学日記』(商品ID:21670)で1年の軌跡を追った後、ポートの《伝説》を聴く、あるいは演奏してみると、彼が「放電」と書き残した意味がよく分かるのではないでしょうか。加藤氏はこの年は惜しくも逃しましたが、翌年見事一等賞を取りました。(2018年6月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品8

ロジェ・ブトリは日本の吹奏楽ファンにはおなじみの名前でしょう。1973年から1997年までの長きにわたり、フランスの軍楽隊の名門、ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団の首席指揮者を務めました。吹奏楽編成で何度も来日しており、日本公演の模様がDVDで発売されたこともあります。親日家で、「Ikiru Yorokobi (生きる喜び)」という吹奏楽曲や、「Asuka (飛鳥)」というクラリネットとピアノのための曲も作曲しています。彼は1932年に音楽一家に生まれ、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)にてナディア・ブーランジェ、トニー・オーバンらに師事、作曲や伴奏をはじめ、8つのクラスで一等賞を取り、1954年には若手作曲家の登竜門、ローマ大賞を受賞しました。1962年には母校の和声科の教授となり、1997年まで務めています。
《コンチェルティーノ》は1955年のコンクールのために作曲されました。ローマ大賞の受賞の翌年です。どうやら、他の管楽器クラスの課題曲の例を見ても、コンクール用小品の作品の委嘱が、有望な若手作曲家に対する支援となっていたようです。当時のフルート科の教授、ガストン・クリュネルに献呈されています。「小協奏曲」ということで単一楽章の曲ですが、大きく分けると緩−急−急の3つの部分に分かれます。半音上行を素材とした旋律の導入部で始まり、アンダンテではまず付点による旋律が大きな弧を描き、次に遠くから叙情的で静的な主題が聞こえます。三連符による主題で次の部分に向かってアッチェレランドをかけます。第2部はアレグレットで、3拍子のダンスのリズムに乗り、流れるような息の長い旋律をフルートが奏でます。次第に音価が短くなって盛り上がりを見せた後、元の旋律に戻ります。第3部はアレグロ・ヴィーヴォです。第1部の導入部の旋律を展開させた後、その断片を契機としてフルートが上行跳躍主題を奏でます。半音下行進行を含む叙情的な旋律が応答となり交互に繰り返された後、第二主題は三連符による舟歌のような旋律です。アニマートで頂点を迎えた後再現部となり、その後は第一主題とは逆に下行跳躍をバネにした旋律を元に第二の頂点を作り上げ、カデンツァに突入します。コーダではオクターヴの下行エネルギーを元にした旋律がヴィヴァーチェで駆け抜けて終わります。
6月6日に行われたコンクールで一等賞を取ったのはジャン・サイヤール、モーリス・シェヴリ、ジョルジュ・ゲヌーの3人ですが、残念ながら特に大きな足跡を残していません。ゲヌーがかつてグラーフと一緒にチマローザの2本のフルートのための協奏曲を録音しましたが、現在廃盤です。(2018年10月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品9

ジョルジュ・ドルリューと聞いてピンと来る方は、音楽ファンというより映画ファンの方かもしれません。ドルリューは1925年にフランス北部のリール郊外、ルーベで生まれ、1992年にロサンゼルスで亡くなりました。父親が工場の職工長をしていた関係で工業学校に進んだものの、家計を助けるために中退し、父と同じ工場で働くなど苦労をしました。それでも音楽への思いは断ちがたく、両親を説得して音楽の勉強を始め、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)に入学し、アンリ・ビュッセル等に作曲を学びました。1949年、作曲科の一等賞、ローマ大賞の二等賞首席を受賞し、作曲家としてのスタートを切ります。フランス公共放送で指揮者、作曲家としてキャリアを積んだ後、1960年の「ピアニストを撃て」から始まるフランソワ・トリュフォーとの共同作業が、ドルリューの名声を高めました。「突然炎のごとく」「二十歳の恋」「柔らかい肌」「恋のエチュード」「私のように美しい娘」「アメリカの夜」「逃げ去る恋」「終電車」「隣の女」「日曜日が待ち遠しい!」とおなじみのタイトルが並びます。70年代からはハリウッドにも進出し、「リトル・ロマンス」(1979)ではアカデミー作曲賞の栄誉にも輝いています。彼は筆が早く、フランスの伝統とも言える色彩豊かで劇的な管弦楽法を得意としていたので、映画音楽というのは彼にとって天職だったようです。
フルート独奏のための《ディプティーク》(二部作)は1981年のコンクールのために作曲されました。作曲家として多忙を極めていたころですが、献呈先が当時のフルート科の教授の一人、アラン・マリオンであることから、おそらく彼の依頼で実現したのでしょう。第1楽章は十二音技法で始まったかと思いきや、第9音目からは自由に旋律を紡いでいきます。冒頭の4音からなる短2度(半音)下行、上行が旋律の契機として特徴的に現れます。第2楽章も即興風の自由な旋律ですが、 短2度(半音)、短9度の音形が随所に埋め込まれています。厳格な書法ではないものの現代音楽なので、ヌーヴェルヴァーグの雰囲気を感じることはできませんが、ブーレーズと同年代のフランス音楽の潮流が窺える作品です。
5月25日に行なわれたコンクールで一等賞を取った生徒の中には現在も第一線で活動している演奏家が多く、ジャン=ルー・グレゴワール(モンペリエ音楽院教授)、フィリップ・ブクリ(バイエルン放送響首席、H.ヴィーゼと同僚)、ユベール・ヴィレール(フランス国立管ピッコロ・ソロ)、エリック・キルクホフ(ベルリン・ドイツ・オペラ首席)、カトリーヌ・ルー(仏国立リール管ピッコロ・ソロ、M.カルデリーニは同団フルート首席)といった顔ぶれが並んでいます。 (2019年2月記)(M.N.)

忘れられたコンクール用小品10

第10回で一区切りつけるに当たり、コンクール用小品とはそもそも何であったか、ということを確認したいと思います。1795年に音楽院(コンセルヴァトワール)の設立が決定され、学校は充実していくのですが、第3代学長のルイジ・ケルビーニの時代に入学、卒業試験の制度が制定されました。このうち、卒業試験に課された新曲演奏用の作品が「コンクール用小品」です。モーツァルトの作品など既知の曲は当然前もって練習が可能で、実力を測る物差しとしては公平ではないと判断され、まだ誰も聴いたことのない新曲を限られた期間で一斉に練習し、その仕上がり具合で評価する、というのはいかにも革命を経て誕生した学校にふさわしいシステムでした。とはいっても、弦楽器やピアノがもてはやされる一方、管楽器があまり大作曲家から作品を残してもらえなかったロマン派の時代、管楽器のクラスのための新曲を作曲したのは教授自身でした。というわけで、コンセルヴァトワールの記録に残る最初のフルート科の課題曲は1824年のベルビギエによる《コンチェルティーノ 第5番》ですが、その次の1832年から1860年まで、チュルーの在任期間中(1829-1859)はずっと彼の作品が続くことになります。
《グランド・ソロ 第11番》 作品93は1845年のコンクールのために書かれ、H.リッテルという友人に捧げられました。曲は両端のアレグロと中間部のロマンスの3部構成になっています。6度の跳躍が印象的な序奏に始まり、そこから派生した第一主題をフルートが奏でます。最初のカデンツァの後、線的な第二主題となり、少しずつ技巧的な旋律となって頂点を迎えます。短い第2カデンツァを挟んでロマンスが始まり、6度の跳躍をもとにこちらは叙情的な歌となります。第3のカデンツァの後、第二主題が4度移調の原調で演奏され、さらに技巧的に音階を上下行し、華やかに締めくくられます。
このころのチュルーにとって、コンクール用小品の作曲は、単に試験用に作品を供給するだけでなく、もう一つ大きな意味があったものと思われます。というのも、フランス楽壇にベーム式フルートの波が次第に押し寄せ、1839年にはパリ音楽院でベーム式フルートのクラスの新設の審議まで行われたからです。このときはチュルー自ら委員の前で演奏して伝統的な多鍵式(チュルー・システム)の優位性を主張し、新設の話を延期に持ち込むことに成功しましたが、自身の流派の存続に対し大きな危機感を覚えたことは想像に難くありません。そこで、ベーム式よりも伝統的なフルートの方が優れていることを証明するための手段としてチュルーは作品を書き、公開演奏である卒業試験において生徒に演奏させることで、審査員である音楽家の同僚仲間や音楽院、音楽行政の上層部にアピールしたのです。
1845年のコンクールにおいて一等賞を受賞したのは、当時わずか12歳のジュール・ドゥメルスマンでした。二等賞のピエール・ブランコは19歳、次点のジュール・クプレが22歳でしたから驚きです。ドゥメルスマンの才能もさることながら、実力成果主義、エリート(選択集中教育)主義、早期教育主義といったフランス教育文化の典型例と申せましょう。実際ブランコもクプレも後世に大きな業績を残さなかったのですが、この非情ともいえる厳しさのおかげで、免許皆伝に相当するコンセルヴァトワールの「プルミエ・プリ(一等賞)」の権威と信頼性が現在まで保たれてきているのかと思うと、歴史と伝統の重みを感じます。 (2019年6月記)(M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ

忘れられた19世紀フランス・オペラ1

フルートのレパートリー、特にフレンチ・スクールの楽曲には「オペラ(作品名)によるファンタジー」といった作品を多く見かけます。これらは、当時の人々がオペラ座で観劇して聴きなじんだメロディをサロンや家庭で再現し、なおかつ超絶技巧をアピールできるよう作編曲されたものですが、クラシック音楽といえども流行や地域性があり、現代の日本の我々にはなじみの無いオペラにしばしば遭遇し、練習の際、作品背景を勉強するのに苦労された方も多いのではないでしょうか。そもそも、19世紀フランスのグランド・オペラ(グラントペラ)というジャンル自体が既に縁遠く、現在フランス・オペラの代表格とみなされるビゼーの「カルメン」はグランド・オペラではなく格下のオペラ・コミックなのですが、説明が長くなるのでまたの機会に譲ります。それでは、チュルー、アルテス、タファネル、ゴーベールなどが活躍した時代のオペラ座の観客席にタイム・トラベルしてみましょう。
《「アフリカの女」による華麗なファンタジー》
本年2019年はパリ・オペラ座創立350周年ですが、それを記念し、2018−19年のシーズンの最初を飾って上演されたプログラムはジャコモ・マイアーベーアの《ユグノー教徒》でした。実はこの《ユグノー教徒》、パリ・オペラ座で初めて1000回以上の上演を記録した空前の大ヒット作だったのです。その後もマイアーベーアは《預言者》などの作品により、グランド・オペラの作曲家としての不動の地位を確立しました。しかし、生前の成功は大勢のライヴァルの嫉妬を買い、多くの批評により攻撃され、死後は急速に忘れ去られてしまいました。
今回取り上げる《アフリカの女》はマイアーベーアの遺作です。ただし、作曲者自身が最終的に考えていたタイトルは「ヴァスコ・ダ・ガマ」で、メインの筋書きはヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するという話ですが、波乱万丈の冒険物語というより、アジアへの案内人としてアフリカからヴァスコのもとに連れてこられた男女の奴隷のうち、女性のセリカが実はインド洋上の島の女王で、彼女と、ヴァスコのフィアンセのイネス、ヴァスコのライヴァルのドン・ペドロとの間で繰り広げられる恋物語が中心になっています。
ボルヌがこの《ファンタジー》で用いたモチーフは以下の通り。冒頭と最後に使われるメインのテーマは、第一幕終結でヴァスコが自身のインド航路開拓のための計画を実現させようとするも、案内人として連れてきた奴隷が口を割らないために出身国が判明せず、計画が議会で否決され、怒りのあまり無礼な態度をとったヴァスコが議会側から糾弾され牢送りになるシーン。第一幕冒頭、ヴァスコの帰りを待つイネスが歌うロマンス。第四幕、セリカの母国の島に捕らわれの身としてたどり着いたヴァスコが、美しい東洋の国の情景に幻惑されて歌うアリア「素晴らしい国、おおパラダイス」。第四幕冒頭、帰国したセリカを迎える戴冠式の音楽、異国情緒あふれるバレエです。
(2019年10月記)【中・上級者向け】(M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ2 (2Fl)

「オペラ・フェイヴァリッツ」と銘打たれた曲集ですが、第1巻(楽譜 ID:30326)と合わせてみても、現代の我々は初めて聞く作曲家名や作品名に面食らい、「一体どこがポピュラー?」と首をかしげたくなるような選曲で、今日なお頻繁に舞台にかけられるものといえば、ロッシーニの《セビリアの理髪師》のみです。これはドップラーの趣味が偏っていたからではなく、前回、シリーズ開始にあたってお話ししたように、19世紀当時の流行を反映したもので、時代の雰囲気を伝えてくれる歴史的資料なのです。今回は典型的な作品を一つご紹介いたします。
《ポルティチの物言わぬ娘》
フランソワ・オーベールは1782年に生まれ、1871年に亡くなった作曲家です。彼の名前や作品を現在耳にすることはめったにありませんが、パリ市民にはオーベール通りという道路名、そしてそこに由来する駅名としてなじみがあります。この通りはパリのオペラ座(ガルニエ宮)を取り囲む通りの一つで、それほどかつては重要な作曲家であったことが分かります。
《ポルティチの物言わぬ娘》は1827年に作曲、翌1828年に初演されました。1882年までにパリだけで505回の上演を記録し、グランド・オペラの様式を確立した作品として知られていますが、20世紀に入ると忘却の彼方に追いやられ、現在では序曲のみ演奏されることが多いです。内容は、ナポリの漁師マサニエッロがナポリを統治していたスペイン政府に対して1647年に蜂起した史実に基づいています。マサニエッロの妹で口のきけないフェネッラを中心に物語は進行していきますが、最後にポンペイで有名なヴェスヴィオ火山が噴火し、絶望に打ちひしがれたフェネッラが溶岩に投身自殺を図るという衝撃的なクライマックスを迎えます。この設定はもちろんフィクションですが、ヴェスヴィオ火山は1822年に噴火を起こしており、当時はタイムリーな話題で、劇的な効果が観客に受けたのです。
ドップラーがフルート二重奏に編曲するにあたって用いたモチーフは以下の通り。
・序曲
・第一幕第三場、エルヴィール王女が結婚の喜びを歌う場面
・第三幕冒頭、ナポリの市場での民衆の踊り(タランテラ)、と合唱
・第一幕第三場、バレエ、婚礼行列中の踊り(ボレロ)
・第二幕第一場、圧政で民衆を苦しめる副王を批判するマサニエッロの歌と合唱
・第一幕第三場、バレエ、婚礼行列中の踊り(ワラチャ)
・第五幕第一場、宮殿の宴で舟歌を歌いながら、何食わぬ顔でマサニエッロに毒を盛る同僚のピエトロ
・第三幕第三場、神に祈りを捧げ、宮殿に火を放とうと企てるマサニエッロの一団の合唱
・序曲
最後は序曲からの引用に戻ります。(2020年2月記) 【初・中級者向け】(M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ3

タファネルによるオペラを基にした華麗なフルート独奏作品、一つ目はレオ・ドリーブ(1836-1891)の《ニヴェルのジャン》(1880年初演)を取り上げます。ドリーブは《コッペリア》や《シルヴィア》などのバレエ作品が現在でもよく演奏されますが、彼のオペラは《ラクメ》が知られている程度です。この《ラクメ》も《ニヴェルのジャン》もともに「オペラ=コミック」に分類され、前回までご紹介した「グランド・オペラ(グラントペラ)」と厳密には異なります。「コミック」と付くため、元来は滑稽で軽いものが主体で、グランド・オペラは壮大な歴史物や悲劇、といった内容での区別もなされていましたが、その後は台詞が入る小規模なオペラか、全てのテキストが歌われてバレエの場面もある大規模なオペラか、という違いに落ち着きました。ただし当時は、グランド・オペラはオペラ座(サル・ル・ペルティエ/ガルニエ宮)、オペラ=コミックはオペラ=コミック座(サル・ファヴァール)と上演される劇場が限定されており、両者の間には厳然たる格式の差が存在し、当然、オペラ座で作品が上演される、というのは作曲家にとってステータスでした。
今でこそビゼーの《カルメン》はフランスを代表する「オペラ」とみなされていますが、創作当時、駆け出しの作曲家であったビゼーにはオペラ座からお呼びがかからず、初演してもらえたのはオペラ=コミック座だったのです。オペラ座はただの劇場ではなく、社交界の場としても機能していたので、威信を保つために保守的な路線となり、フランスの若手作曲家の新作を取り上げることには消極的だったのでした。
《ニヴェルのジャン》も歴史に題材をとっており、形式はオペラ=コミックですが、内容はグランド・オペラに近いものです。15世紀、主人公はモンモランシー男爵の息子でしたが、フランス王国の統一を進めていたルイ11世とブルゴーニュ公シャルルとの争いにおいて、父に背いてブルゴーニュ公の側につき、父の怒りを買って勘当され、フランドル地方(現在のベルギー)のニヴェルに逃げたことから「ニヴェルのジャン」と呼ばれるようになりました。フランス史では有名な逸話で、様々な俗謡が生まれたほどです。
ドリーブのオペラも、その史実に恋物語を追加し脚色されていますが、ルイ11世とシャルルの戦争がクライマックスとなり、激しい戦闘で両腕を失ったジャンは再びフランス軍と対峙することをあきらめ、恋人のアルレットと立ち去るのでした。ファンタジーとして用いられているモチーフは以下の通り。「マンドラゴラのバラード」「射手の行進と道化の三重奏」「風車の物語」です。オペラの成功を受けて初演の翌年に作曲され、当時オペラ座管弦楽団の同僚であったドンジョンに献呈されました。 (2020年6月記) (M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ4

《歌劇「プロゼルピーヌ」よりパヴァーヌ》
タファネルはカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)と公私にわたり交流し、タファネルの演奏を想定して書かれた作品や曲中のパッセージがいくつもあります。タファネルはそれらの中からアンコール・ピースとして使える美しいものや、技巧をアピールできる華やかなものをピアノ伴奏版のピースとして出版しました。カップリングの〈夕べの夢〉は《アルジェリア組曲 op.60》の中の一曲です。
サン=サーンスは《動物の謝肉祭》、《交響曲第3番 op.78》(オルガン付き)や各種の協奏的作品により器楽作曲家として知られていますが、オペラ作曲家のイメージはほとんどありません。実は彼は10曲以上のオペラ作品を残しており、劇場での成功を夢見て作曲を続けていたのです。残念ながら、今日までレパートリーとして残ったのが唯一《サムソンとダリラ op.47》でした。とはいえ、来年2021年はサン=サーンス没後100周年ですので、すでにヨーロッパではリヴァイヴァルに向けて準備が進められています。2014年に《野蛮人》の全曲録音のCD化。2017年には《銀のベル》がオペラ=コミック座で再演、《アスカニオ》はスイスで演奏会形式により再演され、どちらもCD化されています。《プロゼルピーヌ》は舞台にはかけられていませんが、同年に全曲録音CDが発売されました。いずれも世界初録音です。
プロゼルピーヌはギリシア神話ではペルセポネー、ローマ神話ではプロセルピナという女神で登場しますが、それとは直接関係なく、オペラ 《プロゼルピーヌ》(1887年初演)では主人公の高級娼婦の名前です。サバティノに好意を寄せていますが、彼は友人のロレンツォの妹のアンジョラと婚約していました。恋の駆け引きがあり、プロゼルピーヌは手下のスクアロッカにサバティノを偵察までさせます。結局サバティノとアンジョラは結婚式を挙げることになり、式の直前にプロゼルピーヌはサバティノに愛を告白しますが、やはり拒否されてしまいます。それでも嫉妬に燃えるプロゼルピーヌはアンジョラに切りかかろうとし、サバティノに押しとどめられ、観念したプロゼルピーヌは二人を祝福して刃を自らに向け果てるのでした。
《プロゼルピーヌ》のパヴァーヌは第一幕第四場と第五場の間に演奏されます。プロゼルピーヌの館にサバティノがロレンツォと連れ立って現れますが、素直になれないプロゼルピーヌはサバティノにつれないそぶりを見せるのが第四場。サバティノがロレンツォと別れて一人プロゼルピーヌのもとへ行き、恋の駆け引きをするのが第五場。このパヴァーヌはロレンツォが気を利かせてサバティノを一人にし、プロゼルピーヌのもとへ向かうサバティノの物憂げな恋の気分を表しています。 (2020年11月記) (M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ5

タファネルによるオペラを基にした華麗なフルート独奏作品、二つ目はアンブロワーズ・トマ(1811-1896)の《フランチェスカ・ダ・リミニ》(1882年初演)を取り上げます。
トマは19世紀フランスを代表するオペラ作曲家の一人で、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)の院長を務めるなど、フランス楽壇の重鎮でした。これは彼の最後のオペラ作品となり、プロローグとエピローグにバレエの場面がついた四幕のグランド・オペラです。フランチェスカ・ダ・リミニ(1255-1285頃)についてはダンテ(1265-1321)の『神曲』の第5歌に取り上げられ、さらにそれを題材としたチャイコフスキーの管弦楽のための幻想曲(1876)やラフマニノフのオペラ(1906年初演)が書かれているため、物語自体は忘れられたとまでは言えないかもしれません。トマのオペラも、『神曲』をベースにしています。史実のフランチェスカは、父グイド・ダ・ポレンタの意思により敵対するマラテスタ家との和解のために政略結婚させられます。相手のジョヴァンニは足が不自由で、容姿も醜かったため、弟パオロが替え玉として結婚式に出席します。騙されたフランチェスカはパオロと恋に落ち、結婚の後もパオロと密会したため、ジョヴァンニに現場を押さえられ2人とも殺されてしまうという悲恋の物語です。
フランチェスカを責めるのは酷な部分もありますが、ダンテは不義密通の罪により2人を地獄篇に登場させました。『神曲』は地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部からなり、ダンテが古代ローマ詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれてそれぞれの国を遍歴する物語です。本来煉獄は天国への可能性が残されているものの、地獄は永遠に罰を受け続ける救いのない世界であるのに対し、トマのバージョンでは地獄にいるフランチェスカとパオロにも最後に許しが与えられます。
タファネルの編曲では、プロローグより第一場、地獄の門の前でウェルギリウスが登場する場面と、第3幕のバレエより、アダージョ、サルタレロ(イタリア起源の舞踊)、セビリャーナ(スペイン起源の舞踊セビジャーナス)の3曲を取り上げ、後半2曲の華麗なダンスで盛り上げて締めくくります。献呈者は明記されておらず、タファネル自身が演奏したという新聞雑誌記事も見つかっていませんので、初演者は不明です。タファネルによる一連の「ファンタジー」がこの曲で打ち止めになっていることと関係があるのか、残念ながら今となっては確認する術がありません。 (2021年4月記) (M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ6(10Fl//Pic.5Fl.2A-fl.B-fl.Cb-fl)

歌劇《ル・シッド》よりバレエ組曲
19世紀フランスを代表するオペラ作曲家の一人として知られるジュール・マスネ(1842-1912)ですが、それでも彼の代表作である《マノン》(1884年初演)に《ウェルテル》(1892年初演)、そして「タイスの瞑想曲」で有名な《タイス》(1894年初演)など、全曲が日本で上演されることが少ないのは残念なことです。今回は彼の作品の中から、《ル・シッド》を取り上げます。
《ル・シッド》は1885年に初演された4幕からなるグランド・オペラで、第2幕第2場の冒頭にあるバレエの場面が有名で、組曲として単独で取り上げられることも多い曲です。物語は、1961年公開のアンソニー・マン監督の映画『エル・シド』で有名な、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(通称エル・シッド、フランス語名ル・シッド)の生涯を基にしています。スペインにおけるレコンキスタの時代、イスラム教徒と戦った英雄ル・シッドは騎士の称号を与えられ、その父ドン・ディエーグも皇太子の近衛隊長に昇進を果たします。同じポストを狙っていたのがル・シッドに恋心を寄せるシメーヌの父ゴルマ伯爵、彼がドン・ディエーグを侮辱したことからル・シッドが復讐することになり、シメーヌとの関係は複雑なものとなります。しかし、新たにイスラム教徒からの宣戦布告があり、出陣して見事勝利を収めたル・シッドはシメーヌの許しを得、二人は結ばれてハッピーエンドとなります。
レコンキスタとはスペインのイスラム教徒からの国土回復運動を指しますが、スペインはイスラム教徒の支配の時代にその文化の影響を受け、「オリエント」の雰囲気を現在にまでとどめており、ヨーロッパの人々にとっては異国情緒あふれる国でした。そのため、19世紀から20世紀にかけて、音楽の世界においてもスペイン趣味が流行しました。フランスのオペラ作品だけ見ても、ビゼーの《カルメン》(1875年初演)やラヴェルの《スペインの時》(1911年初演)など枚挙にいとまがありません。
今回ご紹介する編曲では、原曲のバレエ曲の中から終曲のナヴァレーズが外され、元は第3曲のアラゴネーズが最後に据えられて、カスティラーヌ、アンダルーズ、オーバード(朝の歌)、カタラーヌ、マドリレーヌ、アラゴネーズの順に収録されています。タイトルから見てもスペイン起源の舞踊曲が並んでおり、これだけでもオペラの情熱的な雰囲気が十分楽しめます。(2021年8月記)(M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ7

「ロミオとジュリエット」はシェイクスピアの作品の中でもあまりにも有名な作品ですし、それを基にしたシャルル・グノー(1818-1893)のオペラ(1867年初演)も比較的よく知られていますが、日本で全曲上演される機会は少ないのではないでしょうか。
今回取り上げる楽譜は、ポール=アグリコル・ジュナン(1832-1903)の編曲作品シリーズ、「現代オペラによる新ファンタジー・コレクション」の一つとして出版された楽譜です。このシリーズの中でジュナンは22曲中10曲でグノーの作品を取り上げており、グノーの音楽はジュナンが活躍した時代によく演奏され、当時の人々に耳馴染みのあるメロディーであったことがわかります。ジュナン自身もグノーの音楽を気に入っていたのでしょう。こちらは「ロメオとジュリエット」の第2番となりますので、作中で最も有名なジュリエットのカヴァティーナ『私は夢に生きたい』は入っていません。しかし、ロメオのアリア『恋よ、恋よ』やロメオの従者ステファノによるシャンソン『白いきじ鳩よ』といった有名な部分が演奏されますので、フランス・オペラのファンの方には十分に楽しんでいただけると思います。
曲中に登場する旋律は、順に
第2幕:ロメオ:ああ、太陽(=ジュリエット)よ昇っておくれ、星々をかすませておくれ!
第1幕:ジュリエット:魅力的な世界が私の眼前に湧き上がってくるようだわ!
第1幕:キャプレット卿(ジュリエットの父):さあ、若者よ!さあ、お嬢さん!
第3幕:ステファノ:白いきじ鳩よ、このハゲワシの巣の中で何をやっているんだい?
第4幕:ジュリエット:愛、それは私の勇気を奮い立たせる!
となっています。
19世紀に流行した華麗に装飾的な楽句がちりばめられる超絶技巧の小品というよりは、録音再生装置のない当時、気軽にオペラのフレーズを演奏会やサロン、家庭で楽しめるように編曲された楽譜となっています。演奏会の途中に挟む聴きやすい一曲やアンコール・ピースとして、また発表会向けの曲として活用していただけると思います。(2021年12月記)(M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ8(2Fl.Pf)

ビゼーのオペラは《カルメン》があまりにもヒットし有名なため、その他のオペラ作品は陰に追いやられてしまいましたが、それでもこの《真珠採り》は比較的知られていると言えるでしょう。とはいえ、これまでご紹介してきた他のオペラの例にもれず、一部の有名なアリアが声楽のリサイタルなどで演奏されるものの、日本で全曲上演されることは珍しいです。今回取り上げる〈耳に残るは君の歌声〉は《真珠採り》の中で最も知られているアリアです。
真珠は日本人にとって古来より馴染みのある宝石の一つで、日本で養殖が成功したこともあって、地域性を意識することはあまりありませんが、西欧において真珠は、歴史的に東方(オリエント)、すなわち中近東やインドとの交易によってもたらされる異国情緒を示す文物、現代風に言うと東洋のアイコンの一つだったのです。よって、《真珠採り》というタイトルはそれだけで当時のフランス人にとってオリエントの雰囲気を想起させるものであり、実際、舞台はセイロン島に設定されています。19世紀のオリエンタリズム(東洋趣味)を反映した作品の一つであり、《カルメン》、《真珠採り》、《ジャミレ》と、ビゼーの流行に乗り遅れまいとする野心が伺われます。
物語は一言で言うと三角関係の話なのですが、真珠採りの頭領ズルガとその旧友ナディールがかつてレイラという美女をめぐって争ったことがありました。ある日、海で働く人々の安全を祈願するために尼僧がやってきて寺院に籠るのですが、この女性が実はレイラだったことが判明し、そこからドラマが動き出します。
「耳に残るは君の歌声」は第一幕のナディールのロマンスで、このオペラの中でも有名なアリアの一つです。ズルガがレイラに尼僧としての戒律を宣誓させていた時、レイラとナディールはお互いの存在に気付いてしまいます。そしてレイラは毎夜、人々の平穏を祈って歌うこととなりました。もちろんナディールは彼女の歌声が耳に焼き付いて離れません。そこで歌われるのがこのアリアです。よってオリジナルは独唱ですが、この楽譜ではピアノ伴奏つきのフルート二重奏に編曲され、独唱部分に和声付けや装飾的な楽句が施されているので、演奏会のプログラムやアンコール・ピースとして活用していただけるようになっています。(2022年4月記) (M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ9

フランソワ=アドリアン・ボワエルデュー(1775-1834)の作品の中で、現在耳にする機会が多いのはロココ風の名残の典雅なハープ協奏曲でしょうか。彼はマイアーベーアやオーベールの一世代前の作曲家で、19世紀初頭の仏蘭西楽壇における重鎮でした。この時代はグランド・オペラの確立前ですが、オペラが音楽生活の中心を既に占めており、ボワエルデューも多くのオペラを残しましたが、現在上演されることは少なく、今回取り上げる《バグダッドの太守》や彼の代表作である《白衣の婦人》の序曲が演奏される程度です。
《バグダッドの太守》は1800年に初演され、19世紀前半に高い評価を得てボワエルデューの名声を確立したオペラ=コミックです。オペラ=コミックとは元来は字義通り滑稽な内容のものであり、シリアスな歌劇との差別化を図るために台本の一部は歌われることなくセリフで語られ、短時間で終わる軽いものでした。上演される劇場も「オペラ=コミック座」という専用のものがあり、「オペラ座」では上演しないといった厳密な区別、ヒエラルキーが存在しました。ただ、社交界の上流紳士淑女が集い、貴賓を接待するといったオペラ座の役割から観客動員を安定させるためレパートリーが硬直化したのに対し、本作やビゼーの《カルメン》といった若手作曲家の新作の受け皿となったのがオペラ=コミック座でした。そのため、後年は喜劇の制約は無くなりましたが、その他の制約はそのままで、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)においてもオペラ科とオペラ=コミック科は別々に存在していました。
《バグダッドの太守》はその名の通り、主人公はイザウンという太守(カリフ)で、自由に街でお忍び歩きをするために偽名を使い、身なりをみすぼらしくして出かけていました。ある日、山賊からヒロインのゼトゥルベを救い出し、恋に落ちます。彼女の母親はイザウンの姿を見て結婚を許可せず、逆にイザウンが宝石を用意したのを見て、彼が山賊なのではと勘違いし、ひと騒動が起きて最終的に素性が明らかになり、めでたく結婚のハッピー・エンドとなります。
設定がバグダッドとあるように、東洋趣味(オリエンタリスム)の作品ですが、18世紀末の作品ですので、真正な東洋の音階や楽器が取り入れられているわけではなく、ラモーの《華やかなインドの国々》の系譜につながる、幻想世界を描いた優雅な音楽となっています。序曲に始まり、主要なアリアがポプリとしてつなぎ合わされ、華やかなコーダで締めくくられます。超絶技巧のファンタジーではなく、録音再生装置の無い時代にサロンや家庭で楽しめるよう編曲されたものですので、発表会や演奏会のアンコールにご活用いただけると思います。(2022年8月記)(M.N.)

忘れられた19世紀フランス・オペラ10 (Fl.Vn.Vc.Pf)

19世紀フランス・オペラのシリーズ最終回は、第1回のマイアーベーアと並ぶグランド・オペラ(グラントぺラ)の作曲家、ジャック・アレヴィで締めくくることにいたします。アレヴィは現在、グノーやビゼーらの師匠ということで名を残していますが、代表作である《ユダヤの女》の他にはほとんど聴く機会がありません。ポップの編曲においてもこのオペラのアリアを中心に取り上げています。
オペラが全盛を誇った19世紀前半のフランスにおいて、もっとも豪華絢爛だったのがグランド・オペラでした。歴史スペクタクルとして、歌手、衣装、舞台装置、管弦楽、全てにおいて大掛かりな出し物で、4ないし5幕からなり、バレエを含み、台本は全て歌われる長時間の上演でした。帝政、復古王政の宮廷文化や、新興ブルジョワジーの台頭による資金面の援助が可能にした芸術ジャンルであり、現代の興行ビジネスとしては、採算を取るのが難しい非常に贅沢なものです。そして録音再生装置の無かった当時、オペラ音楽を手軽に楽しむ方法の一つが室内楽編曲をサロンや家庭の中で演奏することでした。今回取り上げるポップの編曲も「サロン用四重奏曲」のタイトルでシリーズ化されて発売された楽譜の一つです。現在入手可能なものには、シューマン(楽譜 ID:23101)、メンデルスゾーン(楽譜 ID:23104)、ウェーバー(楽譜 ID:23102)、マイアーベーア(楽譜 ID:23100)があります。
《ユダヤの女》のあらすじをごく短くまとめると、ローマ近郊に住むユダヤ人のエレアザールが若かりし頃、ブロニ伯爵から迫害を受け町から追放されます。その後ナポリ人によってローマが襲撃され、火事の中から生き残った女の子をエレアザールが見つけ、養子として引き取りました。実は彼女はブロニの娘でラシェルと名付けられ、サミュエルという若者と恋に落ちます。彼はキリスト教徒の王子で、宗教上許されざる関係であったため、ラシェルは父ともども死刑を宣告されてしまいました。とうとう執行の時刻となり、釜茹での刑の大釜の中で油が煮えたぎっています。ラシェルが大釜に向かう中、ブロニがエレアザールに生き別れの娘の居場所を問い詰めると、彼は大釜を指差して「あそこだよ!」と告げ、自身も後に続き、ブロニが絶望してひざまずく中、幕が下ります。(2022年12月記)(M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール

フルートだけではないフレンチ・スクール1(Fl.Hn.Pf/Vn.Hn.Pf)

フルートの演奏法、レパートリーに関しては19世紀後半から20世紀にかけてのフランスの演奏家、作曲家の影響が大きく、「フレンチ・スクール(フランス楽派)」という言葉をよく耳にします。長らく連邦国家の時代が続き地方分権が進んだドイツとは異なり、ルイ14世の絶対王政以来の中央集権体制が共和政になっても根強く残ったフランスでは、音楽においてもパリ音楽院(コンセルヴァトワール)を頂点としたヒエラルキーが確立し、大きな影響を及ぼしました。よって、フルート以外の楽器でも、フランス独自のスタイルが花開くこととなります。そこで、様々な楽器の奏者が作曲した作品を取り上げ、フランス音楽の伝統や特徴を探っていくことに致しましょう。

第1回目はホルンのフレデリック・デュヴェルノワ(1765-1838)を取り上げます。彼は1795年のパリ音楽院創設時の初代ホルン教授の一人となり、1815年まで務めました。フランソワ・ドヴィエンヌとほぼ同世代です。1797年にはオペラ座管弦楽団に入団し、1799年に首席奏者となるなど、当時のフランスを代表するホルン奏者です。ホルンのフレンチ・スクールというと、パリ管弦楽団の前身、パリ音楽院演奏協会管弦楽団の時代の、ピストン・ヴァルヴの上昇管ホルンによるヴィブラートたっぷりの演奏スタイルを思い起こされる方もいらっしゃるでしょう。しかし、20世紀のロータリー・ヴァルヴ対ピストン・ヴァルヴの対立の前に、19世紀においてはヴァルヴ・ホルン対ナチュラル・ホルンの対立がありました。フランスの19世紀の奏者たちは、ナチュラル・ホルンのハンドストップの技術を磨き上げ半音階を難なく吹きこなしていたため、当時の気密性が良くないヴァルヴ・システムの楽器は音色が悪いと敬遠していました。よって当時のフランスの管弦楽法においては、1、2番ホルンがナチュラルで音色重視の旋律を吹き、3、4番ホルンがヴァルヴで半音階的パッセージを担当する混合編成が一般的でした。楽器製作技術、演奏技術の進歩によりホルン・セクションがヴァルヴ楽器で統一されるようになるのは19世紀末のことです。
ホルン三重奏曲といえばブラームスのものが有名ですが、彼も実はナチュラル・ホルンの音色を好んでいました。現在の楽器よりもベルが小さく、さらにストップ奏法によりベルを塞ぎますので、音量が小さめで音色も多少暗くなりますが、室内楽としてはバランスが取れているように思われます。最近では古典作品を演奏する際にナチュラル・ホルンやナチュラル・トランペットを採用するオーケストラもありますので、試してみるとフルートの方にとってもアンサンブルの響きの作り方で、新たな発見があるかもしれません。楽曲は単一楽章ですが、少し深刻そうなアダージョに続いて、典雅なサロンの雰囲気のカンタービレ、牧歌的とはいえ快活なアレグレットの3部からなります。(2023年4月記)【中級者向け】 演奏時間:約9分  (M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール2(Fl.Hn.Pf/Fl.Hn.Hp)

前回ナチュラル・ホルンがヴァルヴ・ホルンに取って代わられたお話をしましたが、20世紀に入ると、そのヴァルヴ・ホルンの中でも対立が起こります。それがピストン・ヴァルヴの上昇管対ロータリー・ヴァルヴの対立です。「上昇管」とは聞きなれない言葉ですが、第3ヴァルヴで1音半下がる代わりに1音上がるシステムのことです。これは、ナチュラル・ホルン時代に全調分の替管を用意すると非常に重くなるので、音色が良く使用頻度の高い調(Es、E、F、G)だけの演奏に絞ったソリスト用の楽器「コル・ソロ」が作られた名残と考えられます。代表的な例が、ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》の管弦楽版の冒頭のホルンのソロです。スコアの指定では、「ナチュラル・ホルンG管」とありますが、編曲されたのは1910年で、ヴァルヴ・ホルンに移行した後の時代の作品ですから、これは実質的には「上昇管の3番ピストンを押えたまま、ハンドストップ奏法で吹く」という意味でした。また19世紀末からはB管とF管のシングル・ホルンを合体させたダブル・ホルンが生まれます。フランスではセミ・ダブル式が主流で、楽器の構造は短いB管を基準に、F管の分だけ迂回するので楽器自体が軽く、明るい音色が好まれました。ドイツやオーストリアではウィンナ・ホルンがF管シングルであるように、長いF管の深みのある響きを基にB管との2層構造にしたフル・ダブル式の、より重厚な音色となりました。このように、フランスとドイツの美学的な違いが楽器のシステムにも反映されていたのです。しかし、グローバル化の波により、フランス独自のピストン上昇管は淘汰されてしまいました。
ジョルジュ・バルボトゥー(1924-2006)はアルジェリアのアルジェに生まれ、父親は当地の音楽院でホルン科の教授でした。そのため9歳からホルンを始め、先に1948年にパリ国立管弦楽団の2番奏者として入団してから、1950年にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学し、1年で名誉賞を取って卒業します。1951年ジュネーブ国際音楽コンクール1位、指揮者カラヤンの求めでパリ管弦楽団に移籍、母校パリ音楽院のホルン科の教授も務めました。彼自身もフランスの伝統にのっとりピストン上昇管の楽器を使いましたが、彼の一世代前の名手、ルシアン・テヴェ(1914-2007)の演奏は、一聴しただけではとてもホルンとは思えないサキソフォンのような甘い響きで、このような音色のパレットの多様性が途絶えてしまったことは残念なことです。
この《スケッチ》は1940年に作曲され、フルートとハープという20世紀前半の印象派主義音楽を代表する楽器とホルンによる三重奏の小品となっております。ドビュッシーの《ソナタ》のヴィオラをホルンに置き換えたと言っても良いかもしれません。そこで、フルート、ホルン共に繊細かつ明るい音色や甘いヴィブラートを意識して演奏することで当時の響きを再現でき、新たな発見があるでしょう。 (2023年8月記) 【中級者向け】 演奏時間:約3分40秒 (M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール3(Fl.Hp)

ハープというと豪華な装飾のついた王宮の調度品、というイメージがあるかもしれません。その優美なフォルムや音色から「楽器の女王」と呼ばれることもあります。これは、フランスのマリー・アントワネットがハープを嗜んだエピソードが知られていることもその理由の一つでしょう。そして彼女のハープを製作したのがハープ奏者で製作者でもあったジャン=アンリ・ナーデルマン、今回のフランソワ=ジョゼフの父でした。このハープはシングル・アクション・ペダル・ハープでまだ半音階が不自由でした。そして19世紀に入り、ピアノで有名なエラール社が1810年にダブル・アクション・ペダル・ハープを開発し、あらゆる調を演奏することができるようになると、コンサート楽器としての地位を確立し、多くの独奏曲が作曲され、オーケストラ内で効果的な使用がなされるようになります。
フランソワ=ジョゼフ・ナーデルマン(1781-1835)は1825年にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のハープ科の初代教授となった、ハープのフレンチ・スクールの祖と言っても良いでしょう。当時の名手J.-B.クルムホルツに師事した後、ハープ奏者として活躍しました。
《ノクチュルヌ》はやはり当時のフルートの名手であり、パリ音楽院の教授を務めたジャン=ルイ・チュルー(1786-1865)との共作によるヴィルトゥオーゾ小品です。華やかな序奏に続き、ロッシーニの歌劇《ウィリアム・テル》の第3幕第2場のチロル人の合唱のテーマによる素朴な中間部、軽快なロンドレットの3部構成です。それぞれ当時一流の奏者が作曲・監修しているので、それぞれの楽器の演奏効果が遺憾なく発揮されており、演奏会に花を添えてくれることでしょう。
ちなみに、チュルーが旧式の多鍵式フルートの擁護者であり、彼の退任後、初めてベーム式がパリ音楽院で採用されたように、ナーデルマンも旧式のシングル・アクョン・ペダルの擁護者で、彼の死去に伴う退任後、初めてダブル・アクション・ペダルが採用されたのは興味深いです。当時は機構が単純な代わりに、繊細な表現ができる楽器が好まれたのでしょう。 (2023年12月記) 【中級者向け】 演奏時間:約10分30秒 (M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール 4

19世紀後半のフランス・ハープ界にはアルフォンス・アッセルマン(1845-1912)が登場し、名手としてフォーレと親交を持ち作品を献呈されるなど活躍します。彼はパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のハープ科の教授となり、アンリエット・ルニエ、カルロス・サルセード、マルセル・グランジャニー、リリー・ラスキーヌ、ピエール・ジャメなど著名な奏者を育てました。そして、その後任としてさらに近代フランスのハープ楽派を盛り立てたのがマルセル・トゥルニエ(1879-1951)でした。彼はパリに生まれ、弦楽器製作家の父を持つなど音楽的環境に恵まれ、パリ音楽院に入学します。16歳からハープをアッセルマンに師事し、1899年に一等賞を受賞して卒業。パリ・オペラ座管弦楽団のハープ奏者などを務め、1912には母校の教授に就任しました。
トゥルニエの《組曲 作品34》は1928年に作曲されましたが、このフルート、ハープに弦楽三重奏という独特な編成の作品は、1924年にピエール・ジャメが結成したパリ器楽五重奏団(1945年からはピエール・ジャメ五重奏団に改名)のために作曲されました。この五重奏団は娘のマリー=クレール・ジャメとその夫のクリスチャン・ラルデに引き継がれたことから、フルート愛好家の中にも馴染みのある方が多いことでしょう。この組曲は瞑想的な〈夕べ〉、軽快な〈ダンス〉、抒情的な〈リート〉、華やかな〈祭り〉の4曲からなります。トゥルニエは作曲をヴィドールに師事し、1909年にはフランスの作曲の登竜門であるローマ大賞コンクールの2等賞次席を受賞しており、しっかりした構成で充実した響きの作品です。
このシリーズでは楽器の新旧のシステムの対立、変遷に注目していますが、トゥルニエの妻はパリ音楽院でクロマチック・ハープの教授を務めたルネ・レナールでした。ハープは一つの音に対し一つの弦を張りますが、半音階全ての弦を一直線に張ると弦の数が多くなり、遠くの弦に腕が届かず演奏が難しくなります。そのため全音階に弦を張り、ペダル操作で半音の音程を変化させるのがペダル・ハープでした。もちろんこの機構では1オクターブ中に7つの音(弦)しかないため、12の音(弦)を揃えようと試行錯誤の結果生み出されたのが、ピアノで有名なプレイエル社が開発したクロマチック・ハープで、弦をXの字に2コース張り、ピアノの黒鍵と白鍵のように分けた楽器でした。この楽器のためにドビュッシーは1904年に《神聖な舞曲と世俗的な舞曲》を作曲しました。ペダル・ハープを生産していたエラール社はそれに対抗してラヴェルに《序奏とアレグロ》(1905)の作曲を委嘱します。このように、新旧システムがしのぎを削ったのですが、クロマチック・ハープは弦の数が多くなることによる演奏の難しさ、調弦の面倒さなどにより、結局普及することはありませんでした。 (2024年4月記)(M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール5 (Fl.Cl.Fg)

バスーンには現在2種類のシステムが存在し、ドイツ(ヘッケル)式とフランス(ビュッフェ)式がありますが、フランス式はかつてイギリスなどでも用いられたものの、現在はフランスとその周辺でのみ使われています。以下便宜上、ドイツ式をファゴット、フランス式をバソン、総称をバスーンと表記いたします。元々バスーンは長い管を折り曲げたような構造をしており、トーンホールに指を届かせるために管体の厚みを厚くしてその中に斜めに音孔を開けるといった工夫がなされているのが特徴です。その結果、音響学的に合理的な位置にトーンホールがなく、音程が不安定で、複雑な運指の連続となってしまいました。しかしその一方で、副産物として豊かな倍音を含んだ独特の音色を獲得したのです。とはいえ、産業革命により機械文明が発達する19世紀になると、当然フルートのベーム式のような合理化の波がバスーンにも押し寄せることとなります。フランソワ・ドヴィエンヌはフルートだけでなく、バスーンも演奏しましたが、この頃はまだファゴットとバソンは未分化の状態で、古典バスーンの延長線上にありました。今回取り上げるフランソワ=ルネ・ジュボエ(1773-1845)が2回目にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のバソン科教授に就任した19世紀前半、ドイツでバスーンの改革の運動が起こります。それがバスーン奏者、カール・アルメンレーダー(1786-1843)の1823年の論文を端緒とする、ヘッケル社との共同によるファゴットの開発でした。

フランソワ=ルネ・ジュボエの父はドイツの軍楽隊の音楽家で、オーボエ奏者のミシェル=ジョゼフ(1765-1812)、ホルン奏者のピエール=ポール(1775-?)、フルート奏者のエティエンヌ=フランソワ(1776-1822)といった兄弟たちに囲まれた音楽一家でした。ドヴィエンヌにバソンを師事し、ヴェルサイユ宮殿での軍楽隊からキャリアをスタートさせ、パリ国民衛兵の音楽隊に所属。当音楽隊による音楽学校を母体の一つとして1795年に創設されたパリ音楽院の初代バソン科教授の一人となりました。1802年に一旦退くも、1825年から1838年まで再び教授職を務めました。また演奏家としては1801年頃から1826年までパリ・オペラ座管弦楽団の奏者を務めました。 この時代のフランスにおいては、1817年にリヨンにおいて製作家ジャック=フランソワ・シミオがドイツに先駆けてU字管を発明するなどの動きがありましたが、パリの製作家たちには採用されず、古典バスーンの延長線上の楽器が使われていました。フランソワ=ルネ・ジュボエはバスーンを中心とした編成の作品を作曲し、フルートを含む木管アンサンブル曲も多数残しましたが、その作風は古典的なため、この《3つの三重奏曲》も室内楽の勉強や発表会でのレパートリーとして活用してみてはいかがでしょうか。(2024年8月記)(M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール6(Fl.Fg.Pf/Fl.Vc.Pf/Cl.Fg.Pf/Cl.Vc.Pf)

ウジェーヌ・ジャンクール(1815-1901)はパリ音楽院(コンセルヴァトワール)において前回取り上げたフランソワ=ルネ・ジュボエにバスーンを師事し、オペラ=コミック座管弦楽団、イタリア座管弦楽団、パリ音楽院演奏協会管弦楽団の奏者を歴任、1874年に母校のバスーン科の教授に就任し、1885年まで教鞭を執りました。彼のバスーン史における功績の一つは、当時オーボエの改良を行っていた楽器製作者フレデリック・トリエベール(1813–1878)の協力を仰ぎ、フランス(ビュッフェ)式バスーン(以下バソン)の改良に取り組んだことです。
前回ご紹介した、ドイツでのアルメンレーダーとヘッケル社の共同開発によるドイツ式バスーン(以下ファゴット)では大幅に管体の設計が変更され、音量増大、そしてオーケストラに溶け込む音色への変更が図られました。それに対し、バソンの方では元々の音色を尊重するために漸進的な改良にとどまり、トーンホールとキーの増加も最小限に抑えられました。柔らかなカエデ材を使って内径が太いファゴットと、堅い紫檀材を用いて内径も細いバソンは、ダークで柔らかな音色と明るく輪郭線のはっきりした音色が対照的で、金管楽器でいうところのユーフォニアムとトロンボーンのような関係に近いと言えるでしょう。楽器としての合理性、機能性を取るドイツと、楽器のアイデンティティーである音色が最優先されるフランスとの美学の違いが顕著で、大変興味深いです。さて、バソンの改良は最小限に抑えられたとはいえ、19世紀のヨーロッパは機械化の時代、管楽器製作の分野においても、様々なキーシステムが試行錯誤された時代でした。先述のトリエベールのオーボエでは6型が現行の「コンセルヴァトワール式」のもととなっており、それだけシステムの変遷を経てきたことが分かります。そして、ジャンクールも彼と一緒に少しずつバソンの改良を重ね、22個のキーを備えた「改良型バソン(Basson perfectionné)」を発表しましたが、これがバソン史上一番キーが多く複雑なシステムとなります。ちょうどチュルーが木管円錐形フルートを漸進的に改良し、13個のキーを付けた楽器を「改良型フルート(flûte perfectionnée)」と名付けたのと同じ立場を取ったと言えます。
《ベッリーニの「ノルマ」によるファンタジー・コンチェルタンテ》は19世紀のフランスでもてはやされたサロン風小品で、当時流行したオペラを劇場外でも気軽に楽しめ、なおかつ器楽奏者の超絶技巧をアピールできるように作曲された楽曲の一つです。フルートの独奏曲でもタファネルの一連のオペラに基づくファンタジーのようになじみがありますが、こちらではフルートとバスーンがオペラでの二重唱のように掛け合いを行います。第1幕より〈予言の力で〉〈清らかな女神〉、第2幕より〈最期の時まで〉〈お願い、子どもたちを連れて行って〉などの旋律が使われた華やかな音楽です。(2024年12月記)(M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール7

ベートーヴェンの《ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 作品47》、通称「クロイツェル・ソナタ」で知られる、ルドルフ・クロイツェル(フランス語読みでロドルフ・クレゼール、1766-1831)は、当時を代表するヴァイオリニストの一人でした。 彼はドイツ人の父親から音楽の手ほどきを受け、その中でヴァイオリンも習いました。1778年からはアントン・シュターミッツにヴァイオリンと作曲を師事します。1780年、13歳の時にコンセール・スピリチュエルの演奏会で師の《ヴァイオリン協奏曲》を演奏し、神童として楽壇に受け入れられ、以後着実にヴァイオリニストとしてのキャリアを積み、マリー・アントワネットの庇護も受けるまでになりました。フランス革命が起こった1789年、拠点をヴェルサイユからパリに移し、1795年にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)が設立されると、その初代ヴァイオリン教授の一人となりました。そして、開校間もない音楽学校ですので、指導用の教本として編まれたのが当時のヴァイオリン教授3人(クロイツェル、ピエール・バイヨ、ピエール・ロード(ローデ))による『ヴァイオリン教則本』でした。この教本は後世に大きな影響を与えることとなり、3人は「三位一体」となってヴァイオリンにおけるフレンチ・スクールの基礎を作り上げました。クロイツェルはベートーヴェンから1803年に《クロイツェル・ソナタ》を献呈され、名声は高まる一方でしたが、1810年に交通事故に遭って腕を負傷したため、ソリストとしてのキャリアはそこで終わりました。とはいえ、アンサンブル奏者としては演奏を続け、指揮者としても活動を広げました。パリ音楽院の教授は1826年まで務めますが、弟のオーギュスト・クロイツェル、シャルル・ラフォン、後にバイヨのクラスを引き継ぐことになるランベール・マサールといった弟子を育てました。
 クロイツェルの「エチュード」、元は《ヴァイオリンのための40のエチュード、またはカプリス》(後に42曲に増補改訂)は1805年に出版され、パリ音楽院の『ヴァイオリン教則本』とほぼ同時期ですので、草創期の音楽院の生徒向け副教材として書かれたと想像されます。そのため、『教則本』と並んで一種のバイブルとして教師から生徒へ脈々と引き継がれ、フルートにおける《アルテ》のように現在でも使われています。なぜ、これほどまでロングセラーになっているかと言えば、現代にも通用するテクニックが過不足なく網羅されており、「完成された」教本だからでしょう。よって、このエチュードを移調などしてフルート用に編集すれば、フルートにとっても良い練習になるのでは、と考えるのは自然なことで、マルセル・モイーズがすでに《クロイツァーによる20の練習曲》として出版していますが、全音版の《クロイツェル・フルート・エチュード》においてはパウル・マイゼンが35曲を取り上げ、中でも「クロイツェルの2番」と「クロイツェルの5番」をそれぞれエチュードA、Bとして冒頭に掲げ、日々のウォーミングアップ用としています。200年以上も受け継がれている、ヴァイオリンのフレンチ・スクールの伝統をフルートの練習に取り入れてみてはいかがでしょうか。(2025年4月記)(M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール8(4Fl//3Fl.A-fl)

 シャルル・ダンクラ(1817-1907)はフランスの南西、ピレネー山脈のふもとの温泉保養地、バニェール=ド=ビゴールに生まれたヴァイオリニストです。地元の教師からヴァイオリンの手ほどきを受けた後、9才の時に南西部の主要都市、ボルドーでその演奏がピエール・ロード(ローデ)の耳にとまり、彼の推薦によりパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に1828年に入学し、ピエール・バイヨに師事しました。この2人は、前回ご説明したように、ルドルフ・クロイツェルと共にヴァイオリンにおけるフレンチ・スクールの基礎を築いたヴァイオリニストです。そして1833年に一等賞(プルミエ・プリ)を受賞してヴァイオリン科を卒業し、作曲の勉強をジャック・アレヴィのもとで続け、1838年にはフランスにおける作曲家の登竜門、ローマ大賞コンクールで二等賞を受賞しました。演奏活動では、1834年からオペラ=コミック座管弦楽団のヴァイオリン奏者となり、1841年にはパリ音楽院演奏協会管弦楽団のコンサートマスターを務めました。1860年に母校のヴァイオリン科教授となり、それから1892年まで30年以上教鞭を執り、《20の華麗で性格的な練習曲 作品73》や《メカニズム教程 作品74》といった彼の教本が現在でも使われており、ヴァイオリンの古典的なフレンチ・スクールを代表する最後の人物とみなされています。
 ダンクラはローマ大賞コンクールで入賞するほどの作曲の腕もありましたので、弦楽器を中心とした様々な作品を作曲し、もちろんその中にはヴァイオリンにおけるブルグミュラーのような位置づけで現在も演奏される《6つのエール・ヴァリエ 作品89》のような教育的作品も多数含まれます。この《「キラキラ星」変奏曲》は元々ヴァイオリン4挺のために書かれた作品ですが、誰もが知っている「キラキラ星」のテーマや難易度から見て、学生のアンサンブルのために作曲されたと考えられます。これをコンサートフルート3本とアルト・フルートの4重奏に編曲したものが今回ご紹介する楽譜になりますが、ヴァイオリンの最低音がアルト・フルートの最低音と同じG3ですので、編曲も違和感なく原曲の雰囲気を楽しむことができます。曲は〈序奏〉〈テーマ(キラキラ星)〉〈第1〜8変奏〉〈ファイナル〉で構成され、適宜各パートに旋律が振り分けられています。ヴァイオリンの学習者用作品ですので、フルートにとってそれほど技術的に困難なところはなく、アンサンブルの教材としても大変有効です。また音楽アウトリーチ活動において、「キラキラ星」の旋律を演奏するだけでは楽器紹介としては少々物足りないですが、この曲であれば華やかな演奏効果があり、依頼演奏用のレパートリーとしても重宝することでしょう。(2025年10月記)(M.N.)

フルートだけではないフレンチ・スクール9(3Fl//2Fl.A-fl)

これまで、フルート以外の様々な楽器を取り上げてきましたが、フランスにおいて大作曲家たちに代々受け継がれてきた楽器といえば、オルガンでしょう。例を挙げると、フランク、サン゠サーンス、ヴィドール、フォーレ、ピエルネ、デュリュフレ、メシアン、最近では2024年からノートルダム大聖堂のオルガニストを務めるエスケシュがおり、伝統が連綿と続いていることがわかります。なぜ、作曲家がオルガニストを務めるのか。元々フランスはキリスト教国でカトリックの勢力が強く、かつては町や村ごとに少なくとも一つは教会があり、オルガンが据え付けられ、音楽家のポストがあったのです。そして作曲の仕事の依頼が増え、生活が安定するまでの保険としてオルガニストの職に就こうとしたわけです。もちろん、教会音楽家としての肩書により、社会的な地位や名誉も獲得することができました。しかし、このような経済的な理由だけではなく、フランスでは音楽的な理由も大きな割合を占めていました。というのも、キリスト教(カトリック)の典礼の式次第においてオルガンでの即興演奏が重視されるのですが、即興をするためには和声や対位法、フーガといった作曲技法に関する深い知識が必要とされるからなのです。ただ楽譜に書かれたことを演奏するという再現芸術ではなく、創作の比重が大きかったことから、単なる鍵盤楽器の技術的な習得だけでは太刀打ちできず、作曲家がオルガニストの職を務めるという伝統が出来上がったのでした。

 セザール・フランクは1860年から「6つのオルガンのための作品」を作曲し始めますが、その中の1曲が《プレリュード、フーガと変奏曲 作品18》です。それまでは作曲で大きな成功を収めることができず、父との確執はフランクの結婚への反対により決定的なものとなって絶縁となるなど、公私ともに思い通りにならない日々を送っていました。それが、1858年にサント・クロチルド聖堂のオルガニストに就任し、19世紀フランスを代表するロマンティック・オルガン製作家、アリスティド・カヴァイエ゠コルによる新しい楽器と1859年に出会ったことにより、この色彩豊かな音色のオルガンがフランクにインスピレーションを与えたのです。そしてこれが大器晩成型のフランクの円熟期の始まりであり、後の大作が生まれ、名声を上げる流れとなります。この〈プレリュード〉は苦節の人生の作曲家の思いを反映してか、あるいはロマン派の感傷的なサロン文化の影響を受け、セーヌの川面を船がたゆたうように憂いに満ちた美しい旋律が静かに流れ消えていく、内省的な無言歌です。カヴァイエ゠コルのロマンティック・オルガンの特徴の一つにハーモニック・フルート音栓(ストップ)があり、まさにハーモニクス奏法によるフルートのような暖かで浮遊感のある非現実的な音色は、敬虔というよりむしろ甘美で、ともすれば官能的でさえある宗教的キッチュの傾向があり、当時の美学を反映したものです。そして、これはフルート・アンサンブルと大変親和性があり、原曲のイメージに合致しますので、演奏会を穏やかに締めくくるアンコール・ピースとして最適です。(2026年4月記)(M.N.)


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