フルート名曲♪研究所第2回の対談でシャミナードのヴィルトゥオーゾ感について話しましたが、今回はその原点であるパガニーニとその影響、とりわけフルートの世界に与えた影響やヴィルトゥオーゾな面を思いっきり披露するオペラ・ファンタジーの誕生について解説します。
1934年パリ20区にパガニーニ通りが制定されました。
この通りはダブー大通り(boulevard Davout)から始まりマリズ・イルス通り(rue Maryse-Hilsz)まででパリの東、パリ環状高速の近くにあります。
《パガニーニ通り/パリ》
ヴィドールの作曲の師であるベルギーの作曲家フェティス(François-Joseph Fétis 1784〜1871)は音楽学者でもあり、当時の音楽界に関する様々な情報を収集していた。フェティスはパリ音楽院で学び、1821年からパリ音楽院でフーガと対位法の教授を務め、1827年にパリでルヴュー・ムジカル(Revue musicale)という音楽週刊紙を発行、1832年にベルギーに戻る。ブリュッセル王立音楽院はパリ音楽院に比べると後発の音楽院で1832年に設立され、初代の院長をフェティスが務めた。フェティスが集めた資料と楽譜は膨大な量で、ベルギー王立図書館には彼が寄贈した7000冊の本と楽譜による「フェティス・コレクション」が保管されている。この時代のリアルタイムの資料はフェティスの記述によるところが多く、フルート関係ではトゥルーに関する記述が多く残されている。パガニーニとは特に親しくしており、パガニーニのパリ公演で巻き起こる騒動や問題処理にも尽力している。また、日本ではほとんど知られていないがフルート協奏曲(1869年 晩年の作)を書いており、ロマン派時代の数少ないフルート協奏曲として貴重な作品となっている。(商品ID :7247)
ジェノヴァで生まれたニコロ・パガニーニ(1782-1840)は11歳の時ジェノヴァの大劇場でデビューした。以後イタリア国内でのツアーを繰り返し、その名声はイタリアだけでなくヨーロッパ中に広がった。イタリア国外のツアーを始めたのは意外と遅く46歳の時(1828年)で、まずは念願だったウィーンをめざした。ウィーンを皮切りにプラハ、そしてドイツ、ポーランドの各都市を巡る。エネスコがヨーロッパ各国を鉄道で移動していたのとはワケが違い、この時代の交通手段は馬車しかない。けっこうな量の荷物を携えてある町から次の町まで馬車に揺られ、馬が疲れたり水を飲む時には休憩する。到着した町ではしばらく滞在する事になる。ウィーンのコンサートではシューベルトが2度コンサートを聴いている。ウィーン公演の間に「パガニーニは悪魔に魂を売ってあのテクニックを身に付けた」とか「悪魔の一味だ」という噂が一気に広まる。1829年にはワルシャワでの演奏会を17歳のショパンが聴いている。1831年からはパリ、ロンドンへのツアーを行う。パリ公演はオペラ座(オペラ・ル・ペルティエ)で行われた。パリ中がパガニーニに熱狂し、賛美し、そしてウィーンの時と同じようにあらぬ噂が飛び交い、迫害に遭う。この時パリにはフランツ・リストが居た。失恋から隠遁生活に入っていたが1830年の革命の興奮で気を取り戻し、パガニーニの演奏によって覚醒し、その後の人生が変わった。パガニーニの演奏会にかかわったかどうかは分からないがオペラ座のフルーティストにトゥルーがいた。トゥルーは一時期オペラ座をやめていたが復帰し、パリ音楽院の教授を務めながら1827年から1846年までオペラ座で演奏していて、トゥルーのグラン・ソロは作品番号と出版年からパガニーニ以後の作品と思われる。グラン・ソロでは明確な場面転換を持つ連続した形式を作り出したが、それ以前のコンチェルトなどと明らかに作風が違うのはメロディーの歌いまわしと突然現れる高速の32分音符。パガニーニの変奏曲中で突然現れる速いパッセージやコンチェルトで見られる主題をたっぷり歌わせるスタイル等からの影響があったと考えて良いのではないか。
パガニーニは、基本的には自分が演奏するための曲を書いているのだが(パガニーニにしか弾けない!!)、コンサートでその超絶技巧を遺憾なく発揮するための形態として変奏曲という形式をとる曲が多い。変奏の部分で極端な跳躍、ピチカート、フラジオレット、重音といったあらゆる奏法を駆使し超絶技巧を披露していくスタイルだ。そしてその変奏のつなぎ方にレチタティーヴォ風のフレーズを加えたり、オペラの序曲のような前奏を付けたりと変化に富んだ曲想の作品も書くようになる。こういった「変奏曲」からパガニーニ以後のフランスではオペラのメロディーを複数使う様なファンタジー、いわゆるオペラ・ファンタジーが発展する。フランスのフルートの世界で変奏曲という形式ではジェナンあたりが先駆的な存在だろう。ちなみに日本では昔からジュナンと呼んでいるがPaul-Agricole Géninでありeにアクセント(アクサンテギュー)が付いているので「ジェナン」である。ジェナンといえば何と言ってもヴェネチアの謝肉祭が有名だがこれに関して少し説明する。まず、「ヴェネチアの謝肉祭」というのは、元々は年に一度身分の分け隔てなく庶民も貴族も仮面を着け街に繰り出して踊るといった祭りだった。10世紀には始まっていたようだが、1797年、当時オーストリアの支配下からイタリアを解放したナポレオンは、仮面をつけた暴徒や暗殺者を恐れこのお祭りを中止した。以後正式に復活したのは1980年!!で約200年間この祭りは行われていない。つまりジェナンの生きた時代にはヴェネチアで謝肉祭はやっていない。ではこの曲は全くの想像で書かれたのかと言うとそうではない。この曲のテーマは確かにヴェネチアの地元の歌「いとしいマンマ(お母さん)」(原作者は不明)で、パガニーニは1816年にヴェネチアに滞在していて、それ以後演奏し始めたのがこのテーマを使った「ヴェネチアの謝肉祭変奏曲」という題名の曲だった。パガニーニのヴェネチア滞在時期にはお祭りは廃止されてから20年経っていて、メロディーとお祭りに関係性は無い。そしてパガニーニが演奏旅行に行く先々で「ヴェネチアの謝肉祭変奏曲」を演奏するたびに聴衆はこの曲に夢中になり、まだ国外でのツアーをしていないうちに一気にヨーロッパ中で人気のメロディーとなって広まった。つまり、現在世界中で知られるこのメロディーはパガニーニが広めたものだという事になる。古来からある民謡などのメロディーではない。「ヴェネチアの謝肉祭」とはメロディーそのものを指しているのであって、この時代には「お祭り」としてのヴェネチアの謝肉祭は認知しようが無かった。そしてジェナンはパガニーニが広めたこのメロディーを知らなければ曲が書けなかったという事だ。
《ヴェネチア》
ナポレオンは1800年にアルプスを越えてイタリアにやって来た。北イタリアはフランスの保護国となったが、それはイタリア国民にとっては侵略に等しい事でもあった。この時期もパガニーニはイタリア国内でのツアーの途中だったが中止し、ある上流階級の女性のお城で3年ほど隠遁生活を送る。この女性がかなりギターが上手かったことでパガニーニはギターの練習に夢中になる。結果的にギターの演奏もかなりのものになっていたようだ。そしてギターとヴァイオリンのためのソナタ(おそらくギターをその女性が弾き、ヴァイオリンをパガニーニが弾くための曲)を書く。これがフルートでも演奏できるため出版の段階でフルート・ギター版がつくられ、現在も演奏される事が多い。(商品ID:1262)
24のカプリスOp.1は楽譜として24曲を書き残したのは1802年頃とされるが、15歳の時にロカテッリのカプリスを知り、第1曲目がそっくりである事や、それを使っての何時間にも及ぶ練習をしていた記録などから、曲の原型は15歳の時に作曲したと考えられ、本人も最初のうちはなかなか演奏できなかったようである。このカプリスの24番のメロディーは色々な作曲家がテーマとして使用して名曲を創りだしてきた。例えばリストのパガニーニによる大練習曲第6番、ブラームスのパガニーニの主題による変奏曲、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲(ピアノ独奏とオーケストラ)などが最も有名なところだが他に数十曲は存在する。現在フルートのコンクールなどで課題曲になる事もあるパガニーニのカプリスだが、もう40年以上昔、私がパリ音楽院にいた頃のランパル・クラスとマリオン・クラスでは基本的なエチュードとしてレッスンで使われ、当然この時期の学生は2クラスとも全員が全曲をマスターしている。難しいのは難しいのだが、なんといってもありとあらゆる音楽表現、歌い方が含まれていて一曲一曲が努力する価値のある名曲だと思う。
今回はパガニーニの24のカプリスから5番と11番の演奏を公開します。
またパガニーニの変奏曲の中からイ・パルピッティOp.13(ディ・タンティ・パルピッティ 序奏と変奏曲/加藤元章編曲)を公開します。この曲のテーマはロッシーニのオペラ「タンクレディ」のメロディーを主題にしたものですが、ロッシーニ作のフルートとハープのための作品「アンダンテと変奏」Andante con variazioniのテーマそのものなので、メロディー自体はフルートとハープで聴いた人、演奏した人も多いと思います。解説詳細はYouTubeにあります。
1800年初頭のパリの音楽界はオペラが中心だった。イタリアオペラを上演し大盛況だった(イタリア座)という劇場、フランス国家の文化政策としてのパリオペラ座、そして東欧のハンガリーやウィーンでもオペラは盛んになっていた。ウィーンでは初期にはウィーン宮廷歌劇場として始まり、1869年にはウィーンの都市計画で現在のウィーン歌劇場とムジークフェライン(楽友協会)のホールが完成し、より盛んに上演されるようになる。このウィーン宮廷歌劇場時代の初代フルート奏者がフランツ・ドップラーだった。ドップラーは、すぐに指揮者を兼任するようになる。またオペラを数曲書いている。弟のカールとのデュオは1834年頃から始めたとされるが、2人で演奏するためにオペラを題材にしたデュオを書くようになる。ヒットするような名作オペラは、どの場面にも素晴らしいメロディーがあふれている。曲の全てを把握して指揮棒を振るという立場からすれば「オペラ」に有名なメロディーが一つなどは全く考えられない。できれば全てのメロディーを楽しみたい。こうして、単一メロディーの変奏曲ではなくパラフレーズ、オペラ・ファンタジーというスタイルを取り始める。そして夢遊病の女によるパラフレーズやリゴレット・ファンタジー等が誕生する。
《ドップラー兄弟/左がフランツ、右がカール》
1900年頃までのパリのサロンの主役はオペラ歌手だった。そこには有名なオペラのメロディーがあふれていた。サロンに集う人たちはそのメロディーを熟知し、心から愛し楽しんでいた。ならばオペラを題材にしたヴィルトゥオーゾなフルートの曲があった方が楽しい。テーマは有名な曲が良い。2時間以上のストーリーを10分くらいで楽しめる曲が良い。こんな要求の中からオペラ・ファンタジーが演奏されるようになる。実は、当時の新聞などでインフォメーションされたり、批評されたりという記事では、曲のタイトルがFantaisie de l’Opéra Carmen de Georges BizetとかFantaisie sur l’Opéra Mignon de A.Thomasとかになっていて、ボルヌのカルメンなのかタファネルのミニヨンなのかがはっきり分からない記述が多い。いわゆる「アレンジ物」という扱いで、あくまでもオペラの原作者の名前が重要、インフォメーションとしてはボルヌよりビゼーの方が有名で内容はカルメンなので分かりやすいのだが、フルーティスト的には困ったもので判断するのにかなり手間がかかる。一般論からすればカルメン・ファンタジーは、この時代の作品で他にはサラサーテしか知られていないしミニヨンはタファネル以外には考えられないのだが…
パリでドップラーのフルート作品が演奏されたのはおそらく1863年2月14日、サル・プレイエルでのデュモン(Dumon)というブリュッセル音楽院教授による演奏が初めてと思われる。曲はヴァラキアの歌で、音楽週刊誌メネストレルでは大成功だったという記事になっている。オペラの作曲家としてのドップラーの名前は、パリのオペラ界ではすでに知られていたが、フルーティストとしてはまだ認知されていなかった。一方ブリュッセルでは1856年にドップラー兄弟の2本フルートのコンサートが行われ、かなり話題となり、まずブリュッセルのフルート界で有名になり、曲も演奏されるようになっていたようだ。パリでのデュモンの演奏の好評から、まず流行ったのはヴァラキアの歌で、オーケストラ伴奏での演奏、次にハンガリー田園幻想曲でタファネルが演奏し始める。1865年の記事でタファネルの師であるドリュスとタファネルによるドップラーのグラン・デュオ(?詳細不明)の演奏というのもあった。演奏回数から見てタファネルはハンガリー田園幻想曲を気に入っていたようだ。ハンガリー田園幻想曲は1900年以後ゴーベールも頻繁に演奏している。またジェナンが演奏したヴァラキアの歌のコンサート記録もあった。曲の構成要素からドップラーのリゴレット・ファンタジーは、ボルヌやタファネルによるオペラ・ファンタジーへの橋渡し的な存在と言えるだろう。そして題名の通り「パラフレーズ」ではなく「ファンタジー」だ。
●対談ではドップラーのリゴレット・ファンタジーの動画を公開します。
——————ヴィルトゥオーゾの世界へようこそ≪後編≫へ続く
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