ムラマツ・フルート・レッスンセンター講師の白尾隆先生に執筆していただきました。

※この記事は2014年に執筆していただいたものです。

第4回

ハンブルク時代

1600年頃のハンブルク

1768年、54歳のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハは30年に及ぶベルリンでの生活を切り上げ、ゲオルグ・フィリップ・テレマンの後任として、ハンブルク市のカントルと5つの大教会の音楽監督に着任しました。以後、エマヌエルは二度とベルリンの地を踏みませんでした。当時、ロンドン、アムステルダムと並ぶ大商業都市であったハンブルクは、王侯貴族の支配を受けない、市民が自治する自由ハンザ都市として発展してきました。フリードリヒ大王の政策により世界有数の文化都市であったとはいえ、やはり軍事国家プロイセンの首都であり軍人の多いベルリンとはおのずと町の雰囲気が違ったことでしょう。エマヌエルは、自由闊達な市民たちが躍動するハンブルクの空気を喜んだようです。ただし「ここには注目に値する音楽家は一人もいない」との印象を漏らしており、綺羅星のごとく一流の音楽家が揃っていたベルリン楽壇とのレベルの差は歴然としていました。

フルート奏者であったフリードリヒ大王の宮廷を離れたことにより、エマヌエルの新作からしばらくの間フルート作品が消えてしまいます。しかし晩年になり、突如として彼の室内楽の代表作ともいえる素晴らしい4つの作品が登場します。
1786年に作曲されたフルートと通奏低音のためのソナタ ト長調 Wq.133/H564(ハンブルガー・ソナタ)と、1788年、最後の年に作曲されたクラヴィーア、フルート、ヴィオラのための四重奏曲 イ短調 Wq.93/H537ニ長調 Wq.94/H538ト長調 Wq.95/H539の3曲です。

フリードリヒ・ルートヴィヒ・デュロン(1769 – 1826)

1783年、エマヌエルは盲目の13歳の少年の訪問をうけます。このフリードリヒ・ルードヴィヒ・デュロン(1769−1826)という少年は、すでに評判高い天才少年と謳われるフルート奏者でした。少年はエマヌエルのイ短調の無伴奏ソナタの演奏を披露し、エマヌエルは大変感激します。「なんと不思議なことだろう! ここに私の曲を、心を奪うように演奏をする子供がいる! それに対して彼は一度もこのように演奏出来なかった!」との楽匠の述懐には、この“彼”が誰のことなのか、フリードリヒ大王のことかクヴァンツか、他のフルート吹きのことであるかは明確にされておらず謎が残りますが、それはともかく、デュロン少年の演奏に驚き魅了されたのです。エマヌエルは、このデュロンのためにト長調のハンブルガー・ソナタを作曲したといわれています。この曲は、若いベルリン時代の通奏低音付きソナタ群よりさらに彼独自の作風が進化し確立され、無駄な動きのない節約されたバス上に華麗にフルートが展開する、他に類のない一曲となりました。

ザラ・レヴィ 1786年の肖像(1761 – 1854)

3曲の四重奏曲は、ザラ・レヴィ(1761−1854)のために書かれました。ベルリン時代、エマヌエルは肩の凝る儀礼的な宮廷生活から離れ、多くの文化人たちと自由に交流するひと時を好みましたが、このザラ・レヴィという女性は、その集い“月曜クラブ”でエマヌエルと親交のあった裕福な銀行家であるイツィヒ家の娘で、メンデルスゾーンの大叔母にあたる人です。幼少より専門的にクラヴィーアを習い、晩年にベルリンに暮らしていたエマヌエルの兄、フリーデマン・バッハの唯一の弟子でもありました。アンナ・アマーリア皇女との交流を通じてJ.S.バッハの音楽にも親しみ、チェンバロ協奏曲やブランデンブルク協奏曲 第5番のチェンバロ・ソロなどを務めています。また親交深いエマヌエルの音楽をとても敬愛し、多くの自筆譜、手稿譜、オリジナル出版譜を収集しました。後にその大部分が友人のカール・フリードリヒ・ツェルターに託され、ベルリン・ジングアカデミーの書庫に寄贈されています。やがて彼女は教養ある市民、文化人、音楽家たちの集う自身のサロンを主宰し、19世紀のベルリン文化を華やかに彩りました。

彼女はエマヌエルの最晩年に、チェンバロとフォルテピアノという新旧の鍵盤楽器のための興味深い二重協奏曲を依頼します。おそらく老巨匠は、ザラ・レヴィの高い教養とその斬新な発想、冒険精神を愛で、刺激も受けたことでしょう。そしてさらに彼女が依頼した3曲の四重奏曲が、エマヌエル74年の人生最後の作品となりました。この奇抜な編成、クラヴィーア、フルート、ヴィオラという編成も、もしかしたらザラの発案かもしれません。ここでの四重奏曲という意味は、4人で演奏するというのではなく、四声の曲ということです。鍵盤奏者の右手と左手が二声を受け持ち、フルートとヴィオラがそれぞれ一声ずつの、合わせて四声です。後の出版譜にはチェロ等によるバス補強のためのパート譜が添えられているものもあります。トゥッティ的なフォルテの箇所などに低音を充実させることは効果的でしょう。資料としては、エマヌエルの未亡人の代わりに答えた、娘アンナ・カロリーナ・フィリッピーナ・バッハの「クラヴィーア・スコア以外にバス・パートは存在しません」との証言がありますが、興味深いことに当の未亡人、ヨハンナ・マリア・バッハが1790年に公開したエマヌエルの「遺産目録」には、クラヴィーア、フルート、ヴィオラとバス、と記載されています。どちらを取るか?それは結局のところ演奏者の自由な判断に委ねられることになるでしょう。
この3曲の四重奏曲の魅力を何と喩えたら良いのでしょうか? 若い頃より培った彼の独特な語り口、新鮮なインスピレーション、多感な感情のうつろい、ときにガラス細工のように繊細に美しく、ときには突然の強音、意外な和声の変化等が聴き手を驚かすその手法の洗練は、極まっています。老大家の熟練で一切無駄のない、とてもスッキリとした風通しのよい音響の中に、3つの楽器による素晴らしく独創的な“会話”が充溢しています。

「エマヌエル・バッハは我々皆の父であり、我々は彼の子供である」と、ハイドンが言ったという話も残っているようです。ハイドンも、モーツァルト、ベートーヴェンも、エマヌエル・バッハを大変尊敬していました。その後のロマン派時代に彼は重要視されなくなり、忘れられ、近代になってようやく復活が始まりました。彼はよくJ.S.バッハとハイドン、モーツァルトら古典派を結ぶ、過渡期の作曲家のように例えられることがありますが、そうではありません。彼は二つの大きな山を繋ぐ尾根ではなく、J.S.バッハと古典派の間にあるもう一つ別の“大きくてユニークな山”なのです。

J.S.バッハは晩年に「音楽の捧げもの」を書き、時代が下って印象派のドビュッシーが最晩年にフルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタを書きました。そしてエマヌエル・バッハは、亡くなる年に3曲の室内楽を残してくれました。フルート吹きにとって大変幸運なことでした。

ハンブルガー・ソナタ(Wq.133/H564)

クラヴィーア、フルート、ヴィオラのための四重奏曲

白尾 隆


東京生まれ。桐朋学園大学卒業。林りり子、森 正の両氏に師事。ドイツ・フライブルク国立音楽大学に入学。オーレル・ニコレ氏に師事。1978年「特別優秀賞」を得て卒業。その後チューリッヒにおいてアンドレ・ジョネ氏に師事。
1980年〜1986年までオーストリアのインスブルック交響楽団の首席フルート奏者を務める。又ソロ、室内楽の分野においても活動、オーストリア国営放送に多くの録音を残す。
1986年帰国。1987年より「サイトウ・キネン・オーケストラ」国内外の公演に参加。現在、桐朋学園芸術短期大学特別招聘教授、武蔵野音楽大学・広島エリザベト音楽大学講師、ムラマツ・フルート・レッスンセンター・マスタークラス講師。
また、ソリストとして幅広い演奏活動を行なっている。