フルート奏者の竹澤栄祐さんに執筆していただきました。

※この記事は2019年に執筆していただいたものです。

第2回

天才?モーツァルト

コスモポリタン モーツァルト

モーツァルトと旅は、切っても切り離せません。

モーツァルトがたった5歳の時に、ザルツブルクからミュンヘンへ、父レオポルトに連れられて、姉のナンネルと一緒に演奏旅行をしたのを皮切りに、プロイセンとオーストリアのいわゆる「七年戦争」が終わった1763年から、7歳のモーツァルトは一家で3年半にもおよぶヨーロッパ横断の長旅をしています。35年11か月と8日の人生(およそ13,080日間)のうち、3割弱にあたる3,720日間、実に17回も旅をしています。彼が訪れた国は、現在の国名で、ドイツ、イタリア、スイス、フランス、チェコ、スロバキア、ベルギー、オランダ、イギリスの9か国になります。海老澤 敏氏によると、語学にも堪能だった彼は、母国語のドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、英語、フランス語を話し、さらにスペイン語、ギリシャ語も理解できたそうです。「音楽=言葉」です。言葉を理解することは、即ち音楽を理解することだったのではないでしょうか。旅の間に少なくとも2度の大病で死にかけたり、母を旅行中に亡くしたりしましたが、彼は旅によって、イタリアの歌謡性とドイツの堅牢な音楽、そして華麗なフランス音楽などという、様々な国の音楽を吸収するだけでなく、それを彼独自の音楽言語に変容させることによって、まさに唯一無二の音楽を作り出していきました。

教育パパ、レオポルト

ヴォルフガングがザルツブルクを離れウィーンで独立するまで、旅を計画したのは父親レオポルト(1719〜1787)です。彼の存在なしに、「天才」ヴォルフガングは生まれなかったのです。彼は、ヴァイオリン奏者でヴァイオリンの重要な教則本を書いただけではなく、息子のキャリア教育をデザインしました。息子の才能をいち早く見抜いて、その才能を伸ばすためには、閉鎖的なザルツブルクから抜け出し、様々な国の音楽を吸収させる旅行が必要であることに気づき、驚くべき行動力でそれを実行しました。彼が各国の宮廷で息子の神童ぶりを披露させることで各地に噂が広まり、記録にも残りました。また、息子と一緒に旅行できないときは、頻繁に手紙のやり取りをして、遠方からでも細かく息子に指示を出しました。このことのいわば副産物として、後世の私たちにも「天才」の極めて詳細な記録が伝わったのです。スマホなどの電子機器がない時代に一人の人物の記録がこれほど膨大に残されている、という点でも、モーツァルトは稀有な存在であるといえるのです。一緒に旅をしている間は、レオポルトが先生役になって語学など音楽以外の勉強も教えました。やがて、ヴォルフガングが青年に成長すると、レオポルトの目的は息子を宮廷作曲家にすることに変わりました。その就職活動のために、さらに息子に旅をさせました。そして、ついにヴォルフガングは、1787年12月7日、31歳にしてオーストリアの「宮廷作曲家」の称号と、年俸800フローリン(現在の日本の貨幣価値にしておよそ800万円)を得ることに成功しました。しかしその時、父レオポルトは同じ年の5月に亡くなっており、息子の晴れ姿を見ることはできませんでした。

「神童」から「天才」へ

ピエトロ・アントニオ・ロレンツォーニ作 女帝マリア・テレジアから賜られた大礼服を着た6歳のモーツァルト

モーツァルトは、1769年から1773年までの間、第1回目のイタリア旅行に出ています。1770年には、ローマのシスティーナ礼拝堂で、アレグリ(1582〜1652)の門外不出の秘曲として有名な、4声部と5声部からなる無伴奏の二重合唱曲≪ミゼレーレ≫を一度聴いただけで覚えて、宿に帰り譜面に起こした、という有名なエピソードがあります。それだけでなく、ボローニャでは当時音楽理論家として著名だったマルティーニ神父(1706〜1784)から教えを受け、ボローニャ音楽アカデミーの試験に合格、さらにローマ教皇クレメンス14世から「黄金の騎士勲章」を賜るなど、イタリア中で神童ぶりを発揮しました。
モーツァルト以外にも「神童」と呼ばれた音楽家はいます。例えばこの旅行中フィレンツェで、モーツァルトと同い年で、同じように著名な作曲家の父に教育を受けて8歳にしてパリでデビューした、イギリス人のトーマス・リンリ(1756〜1778)というヴァイオリニストと出会いました。2日間お互いにヴァイオリンを弾き合って楽しみました。残念ながら、リンリはその8年後22歳で夭折しています。

また、1763年に7歳のモーツァルトの演奏を14歳のゲーテが聴いていますが、その当時を回想し、「メンデルスゾーン(1809〜1847)の神童ぶりはモーツァルトを凌ぐ」とメンデルスゾーンの師だった作曲家ツェルター(1758〜1832)に発言した記録が残っています。

メンデルスゾーンは、ベルリンのメンデルスゾーン家で日曜日に開催された、有名なサロン演奏会(「サロン」といっても100人以上収容できる)で演奏するために、すでに12歳から14歳の間に12曲の≪弦楽のための交響曲≫を作曲し、13歳の時には≪ピアノと弦楽のための協奏曲≫を作曲しています。そして、16歳では≪弦楽八重奏曲 変ホ長調 作品20≫、そして17歳にして名作≪「夏の夜の夢」序曲 ホ長調 作品21≫を作曲しています。 

このように、彼らのような「神童」はいつの世にもいます。しかし、「天才」として歴史に名を残すのはごくわずかです。
モーツァルトの「天才」を理解するには、「神童」との区別が必要かもしれません。

ではどこが「天才」だったのか?

人間が話せるようになるには、まず身近な親などの言葉を模倣することから始まります。作曲も同じです。いくらモーツァルトでも、模倣してそこから学ぶことなしに自ら作曲することはできませんでした。まず、模倣したのは父親のレオポルトや、ザルツブルクで彼の周囲で活躍していた、例えばミヒャエル・ハイドン(1737〜1806)の音楽でしょうか。

1回目の大旅行で8歳になったモーツァルトは、パリでヨハン・ショーベルト(c.1735〜1767)の音楽に影響を受けて、ヴァイオリンの伴奏付きクラヴィーアのためのソナタを作曲しています(例えば、その後ロンドンで作曲した、フルートでも演奏する哀愁を帯びたソナタK.13の第2楽章ヘ短調は8歳の作品とは思えません)。そして、ロンドンでは大バッハの末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)に出会い、彼から作曲を学んでいます。田村和紀夫氏によれば、この3人の師から「音楽のシンメトリー性を高める短い展開部(レオポルト)、悲劇性の志向(ショーベルト)、そして音楽を開かれた言葉とする発想(J.C.バッハ)」を学び、8歳にしてすでにモーツァルト固有の様式を確立したそうです。

さらに、前述の通りイタリア旅行ではマルティーニ神父に、イタリアの伝統的な対位法の薫陶を受け、17歳の時の3回目のウィーン旅行では、ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲集≪太陽四重奏曲≫から大きな影響を受けることになります。
彼の素晴らしさは、上記のいずれの場合も、ただの模倣に終わったのではなく、その都度、彼独自の工夫を加えて彼の音楽語法を発展させたことにあります。

「天才」モーツァルトの誕生です。

ホモフォニーとポリフォニーの融合

そして、ついに大人になり独立したモーツァルトは、前回掲載した手紙のように、ウィーンのスヴィーテン男爵邸で、とうとう大バッハやヘンデルの作品に出会うことになります。そこで、イタリアの対位法とは違う、北ドイツの対位法を模倣しながら学びました。
そしてモーツァルトは、≪ジュピター≫を含む3大交響曲や、オペラ≪ドン・ジョヴァンニ≫、≪魔笛≫(ベートーヴェンは、≪魔笛≫の中にはモーツァルトのすべての面が見られるといって、この音楽を敬愛していた)などの傑作を次々と作曲します。それらの音楽の秘密は、古典派の上声部の主旋律に和声的な伴奏が付く、「縦」の和声を重視する平明なホモフォニーと、バッハのバロック時代を代表する、複数の声部が絡み合いながら「横」に進む多声部音楽(=ポリフォニー)が、まるで縦と横が混ざりあうかのように融合されていることです。このような融合について、モーツァルトはハイドンの弦楽四重奏曲集≪ロシア四重奏曲≫から学び取ったのですが、このわかりやすいホモフォニーでありながら、ポリフォニーの奥深さを兼ね備えた音楽が、彼を通じてさらに深化されたのです。

ホモフォニーとポリフォニーの融合。W.A.モーツァルト/2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448/375a
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ここにこそ、大人のモーツァルトの「天才」が見て取れます。
ある一つの特徴だけで人を評価することはできません。すべての人には複数の特徴があり、それらを総合的に判断してその人を評価します。モーツァルトの場合も、今まで挙げてきたことすべてを総合的に評価してはじめて「天才」といわれるべきでしょう。
≪主な参考文献≫

・モーツァルト家のキャリア教育−18世紀の教育パパ、天才音楽家を育てる、久保田慶一著、アルテスパブリッシング

・CD付徹底図解 クラシック音楽の世界、田村和紀夫著、新星出版社

・モーストリー・クラシック、Vol.255、日本工業新聞社

・モーツァルト―“天才”の素顔とその音楽の魅力、音楽の友編、音楽之友社

竹澤 栄祐

東京芸術大学音楽学部器楽科フルート専攻を経て、同大学院修士課程修了。さらに博士後期課程に進み、「J.S.バッハの作品におけるフルートの用法と真純問題をめぐって」についての研究と演奏で管楽器専攻としては日本で初めて博士号を授与される。
過去9回、銀座・王子ホールにてリサイタルを開催。
アジア・フルート連盟東京の会報では、創刊号から10年以上「J.S.バッハのフルート」を連載中。ソウル大学や上海音楽学院などで講演を行っている。
これまでにフルートを北嶋則宏、播博、細川順三、金昌国、P.マイゼン、室内楽を山本正治、中川良平、故岡山潔、音楽学を角倉一朗の各氏に師事。
現在、アジア・フルート連盟東京常任理事、東京芸術大学非常勤講師、埼玉大学教育学部芸術講座音楽分野教授。