東京学芸大学教授の清水和高先生に執筆していただきました。

※この記事は2021年に執筆していただいたものです。

第3回

受難、そして再興

第3回は、マドレーヌ教会に移籍し、普仏戦争後決行した国民音楽協会旗揚げ公演まで、つまり22歳から36歳までの生涯と、その過程で生み出されたフルートのための作品『ロマンスOp.37』についてお話し致します。

名オルガニスト サン=サーンス

マドレーヌ教会

サン=サーンスは17歳でサン・メリ教会オルガニストとして活動を始めると、メキメキと頭角を現し、その若き才能はマドレーヌ教会の司祭ガスパール・デゥゲリの目に留まり、ヘッドハンティングされます。図書館に置いて欲しい」というサン=サーンスの言葉が残されています。サン=サーンスを広大な世界へと誘い、その礎を築かせたのは、パリ音楽院の図書館だったのかもしれません。
まるでギリシャ神殿を思わせる壮大なこの教会には、オルガン建造の名匠カヴァイエ=コルの銘器が設置されており、そのポストはだれもが羨むものでした。1858年1月1日に辞令を受けて以降、約20年間という長きにわたり勤めますが、在職中行った即興演奏は大変な評判を呼び、リストやクララ・シューマンなど多くの音楽家がこぞってマドレーヌ教会を訪れ、サン=サーンスの名を知らしめることとなります。

サン=サーンス先生!

サン=サーンスは作曲家兼演奏家として一生を送りましたが、その間には、わずか4年ですが教職時代があります。1861年、25歳となったサン=サーンスは、ニデルメイエール古典宗教音楽学校にピアノ教師として赴任し、15歳のガブリエル・フォーレをはじめ、アンドレ・メサジェやユジェーヌ・ジグ等を受け持ちます。
音楽学校という学校の性格から、生徒たちにとってシューマンやリスト、ワーグナーなど最新の芸術作品は縁のないものでしたが、サン=サーンスはそれらの音楽も積極的に取り上げ、ピアノの美しいソノリテや色彩、各作曲家固有のスタイルの追求など、その神髄を授けました。
特に生徒たちの出来が良いと、自宅に招待し夕食をご馳走することもありましたが、更に天気が良い日には屋上に上がり、自慢の望遠鏡で一緒に天体を眺めるなど、気さくな一面もありました。

サン=サーンスは、国外での活動を開始する1865年には多忙のためこの学校を退職しますが、わずかな教職期間とはいえ、ここで送った生徒たちとの交流はかけがえのないものとなり、彼等との絆はその後も途切れることがありませんでした。

ニデルメイエール古典宗教音楽学校
サン=サーンス退職後の写真にはなりますが、フォーレはじめメサジェやジグの姿がみえます。

後にパリ音楽院院長となるフォーレとは、生涯にわたり家族の様な関係を続けますが、フォーレの人事の陰には、常に骨身を惜しまないサン=サーンスの献身的な働きがありました。このような例はフォーレに留まらず、かつての教え子たちが岐路に立たされると、サン=サーンスは常に愛弟子たちの味方であり続けました。

リスト、ワーグナーとの出会い、そして国外デビュー

フランツ・リスト(1811-1886)

サン=サーンスのキャリアは様々な人物との交流によって切り開かれていきますが、その中でもリストとワーグナーとの出会いは格段大きな意味を持ちました。サン=サーンスは15、6歳の頃セゲール宅で、既に伝説的な存在として音楽界に君臨するリストと対面を果たし、その後のキャリアに大きく関わる存在となります。

ある日マドレーヌ教会を訪れたリストは、それまで演奏不可能と考えていた自作のピアノ曲『小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ』を演奏するサン=サーンスの姿に愕然とし、リストをして「世界一のオルガニスト」と言わしめました。

その後『タンホイザ―』上演のため、パリ逗留中のワーグナーと出会います。 意気投合した2人は頻繁に会うようになりますが、ある日ワーグナーは、自作の複雑なスコアを一瞥しただけで弾いてしまうサン=サーンスを目の当たりにし、その桁違いの能力に舌を巻きます。

リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)

ワーグナーとの友情は、その後大きなうねりを上げるワグネリズムに否応なく翻弄されることになりますが、少なくともこの時点でのサン=サーンスは、ワーグナーの賛美者であったことは間違いありません。

サン=サーンスは30歳になるとライプツィヒでのデビュー公演を皮切りに国外での活動を開始します。1870年5月には、ワイマールで開催された「ベートーヴェン生誕100周年祭典」に招かれますが、その際リストにオペラ『サムソンとデリラ』の計画について打ち明けると、すぐさまワイマールでの上演を約束してくれました。母国フランスではなかなか演奏の機会が与えられないオペラでさえも、ドイツではすんなり話が進むこの例から分かるように、サン=サーンスにとってのドイツは、実りをもたらしてくれる特別な地となりました。
しかしその良好な関係は、時代のうねりといった個人の才能や努力では抗いきれない大きな力によって、一瞬で引き裂かれることとなります。

サン=サーンスはワイマールの後、リストと共にミュンヘンでワーグナーの『ラインの黄金』『ワルキューレ』初演を鑑賞しますが、その頃のフランスとドイツの関係は最悪の状態に至り、まさに一触即発の状態にあったのです。

フランスの受難 そして再興

『パリ・コミューン』町役場でのコミューンの宣誓。(1871年)

ミュンヘンの初演に感銘を受けたサン=サーンスは、その後ワーグナーの熱狂的ファンであるフランス人の若手作家一行に交じり、スイス・ルツェルンのワーグナー邸にまでおしかけますが、交友を深めていたまさにその時、普仏戦争が勃発します。

サン=サーンスはすぐさまワーグナー邸を立ち去り、やっとの思いでスイス国境を越えフランスに戻ると、国民衛兵として従軍しますが、この戦争によってサン=サーンスは、親友の画家アンリ・ルニョーを失います。

翌1871年1月28日、敗戦が決定的となったフランスはパリを開城し、暫定休戦となりますが、パリ市民の怒りの鉾先は、ドイツが突きつける敗戦の屈辱的条件をのむ臨時政府に向くこととなり、やがて自国民同士が殺し合う「パリ・コミューン」に場面を変えていきます。
「パリ・コミューン」前の不気味な静けさの中、2月25日、サン=サーンスはフランス音楽興隆を目的とした国民音楽協会設立のため有志をつのり、セザール・フランクの弟子アンリ・デュパルクのアパートに結集します。その時のメンバーは10名。いずれも20代から40代までの若手・中堅で、その中には若きタファネルも居ました。 3月17日、第4回目の会議では協会の組織が決まり、ビュシーヌが会長、副会長にサン=サーンス、タファネルは副会計となりました。

そして会議の翌日、ついに「パリ・コミューン」が始まり、協会の活動は一旦中断します。この争いは、且つてのフランス革命の例にもれず、政府から特権を受けるカトリック教会も無関係でいることができません。この時のサン=サーンスの職位はマドレーヌ教会オルガニストです。つまりコミューンの敵となるため、隣人が敵といった、普仏戦争とは次元が違う危険が迫っていたのです。既にスパイが自宅前に偵察に来ていたこともあり、一刻の猶予もならないサン=サーンスは急ぎ家を飛び出し、ロンドンに向かう最終列車に潜り込むことができました。まもなく鉄道駅は閉鎖となりますので、まさに間一髪の脱出劇でした。

サン=サーンスがロンドン逃避中、パリの状況は刻々と悪化の一途をたどり、1871年5月21日、ついに「血の一週間」とよばれる最悪の時を迎え、5月28日、「パリ・コミューン」は終結します。(普仏戦争は5月10日に終結)

この「血の一週間」では、コミューン側の捕虜となっていたマドレーヌ教会司祭ガスパール・デゥゲリが処刑されました。サン=サーンスの才能を見出し、マドレーヌ教会に推挙してくれた恩あるデゥゲリ死去の報を受けると、サン=サーンスはその葬儀に間に合うべく、コミューン終結後も依然混乱の最中にあるパリに戻ります。

これらの争いは、フランス国民に計り知れない挫折と喪失感を与えましたが、同時にナショナリズムという新たな光が放たれる契機ともなりました。

1871年11月17日、ついに国民音楽協会はアルス・ガリカ(フランスの芸術)をモットーとし旗揚げ公演を決行します。この時サン=サーンスは36歳。まさにフランス音楽再興の立役者となったのです。

ドイツ人であるワーグナーは普仏戦争の勝利を祝し、プロイセン王ウィルヘルム1世に『皇帝行進曲』を献呈しましたが、サン=サーンスは『英雄行進曲』をこの旗揚げ公演で演奏し、祖国を守るため勇敢に戦い戦死した友人ルニョーに捧げ、ナショナリズムを鼓舞しました。

ちなみに、このような音楽協会は既に大なり小なり存在はしていましたが、国民音楽協会設立の意義は、敗戦に打ちひしがれたフランス国民としての誇りを喚起し、自国の作曲家に光を当て、その後ドビュッシーやラヴェル、フランス6人組へとつながる黄金時代を呼び起こしたことにあるといえます。

『ロマンスOp.37』について

では、ここから『ロマンスOp.37』について説明致します。

初演は1871年7月にドイツの地バーデン=バーデンで行われ、アマデ・ド・ヴロワというフルーティストが初演者となりました。

7月8日の公演は、ヴロワのフルートとサン=サーンスのピアノにより披露され、続けて13日にはミロスラフ・コーネマンの指揮、バーデン=バーデン管弦楽団(当時の名称はOrchestre de la Conversation a Bade)の伴奏によって再演されました。つまり室内楽版、オーケストラ版とも、これが初演です。

しばしば初演者について、1872年4月6日、国民音楽協会で演奏したタファネルと説明している二次資料を見ることがありますが、実はタファネルは初演者ではないのです。

このように『ロマンスOp.37』は、よく演奏されるわりには謎が多い作品でもありますので、ここで前回同様、清水探偵による3つの推理を行いたいと思います。

清水探偵による『ロマンスOp.37』初演に関する3つの推理!

@作曲日からみえてくること

この作品には1871年3月25日作曲と記されています。 この日にちから「パリ・コミューン」から逃れロンドンに到着後すぐに書かれたことが分かりますが、そのような先の見えない混沌とした状況下に書くということは、急遽書き上げなくてはならない何らかの事情があったことが推測されます。

Aなぜタファネルではなくヴロワ?

サン=サーンスは、生涯にドリュスはじめ幾人かのフルート奏者と関りがありましたが、中でもタファネルを高く評価していました。本来であればタファネルが初演者でもおかしくありませんが、ヴロワという人物が行なったということには何か事情がありそうですので、この点について推理してみたいと思います。

「パリ・コミューン」前日に行った国民音楽協会第4回会議後、設立メンバーは一旦散り散りとなりますが、タファネルは故郷であるボルドーに疎開します。この時トゥルーヴィルのカジノと演奏の契約を結んでしまったため、コミューン終了後、タファネルには身動きが取れないといった事情がありました。
それらの事情から想像すると、本来はタファネルを想定していたが、突発的な事情により、急遽ヴロワが代奏したとも考えられます。

ではそのヴロワですが、パリ音楽院予備級講師コシュに師事し、リリック座と衛兵音楽隊に所属、国外でも活発に演奏活動を行い、カール・ライネッケの『ウンディーネOp.167』の初演者としても知られています。

サン=サーンスとの出会いについてはよくわかりませんが、唯一、普仏戦争前に共演している資料を発見しましたのでご紹介します。

フランスの音楽情報誌Le Ménestrel、1870年3月17日号に書かれた記事には、サン=サーンスとヴロワがパリのエラール・ホールでバッハの美しいフルート・ソナタを共演し喝采を浴びたことが記されています。この日の講評を担当したAd.ジュリアンは全般的に好意的な内容を書いていますが、その筆の感じから、ヴロワのフルートは抒情的な表現が際立つ感動的な演奏であったことが想像されます。

ヴロワが初演者になった背景には、この日の共演の好印象があり、ロマンスの演奏者として適任と考え白羽の矢を立てたのかもしれません。 いずれにしろ3月に作曲、5月末(もしくは6月初旬)に帰国、7月に初演といった過密スケジュールを考えれば、急遽ヴロワに打診したといった状況が目に浮かびます。

Bなぜバーデン=バーデン?

普仏戦争が終わり、まだそれほど日が経たない時期に、なぜついこの間まで敵国であったドイツの地バーデン=バーデンで初演を行ったのかという点に、私は一番の疑問を感じます。親しき友を殺され、ナショナリズムを盛り上げている張本人であり、且つ国民音楽協会旗揚げ公演前といった時節を鑑みればなおさらです。

最後に、バーデン=バーデンでロマンスを披露する経緯について、私なりの推理をしてみたいと思います。

高級保養地として知られるバーデン=バーデンは、モーツァルトはじめ多くの音楽家が訪れ足跡を残していますが、サン=サーンスに近しい歌手ポリーヌ・ヴィアルドとクララ・シューマンもまた1863年に両者揃ってバーデン=バーデンへ移住します。

私にはサン=サーンスのバーデン=バーデン公演に、この2人が関与していたと思えて仕方がないのです。

フランス人であるヴィアルドは、普仏戦争が始まった1870年にはバーデン=バーデンを去りロンドンに滞在しますが、一足遅れロンドンに避難したサン=サーンスは早速ヴィアルド宅を訪ね、戦火を逃れた者同士ゲームなどに興じ、楽しいひと時を過ごしています。この時バーデン=バーデン公演の話がもちかけられ、急ぎ『ロマンス』を仕上げたというのもひとつの可能性としてあるのではないでしょうか。

一方クララは1873年までバーデン=バーデンに留まります。クララは国内外で忙しい演奏活動を行っていましたが、毎年5月から9月の間、家族とともにバーデン=バーデンで過ごすことが恒例であったことから、1871年7月の初演に立ち会っていた可能性が高いと考えます。

サン=サーンスは、『ロマンツェ』といえばシューマンというほど夫ロベルトと共に多くの傑作を残したクララを意識し『ロマンスOp.37』を書いたとすると、全てのストーリーが繋がります。

以上、あくまで清水探偵の推理ですが、如何でしたでしょうか?

最後に

クララ・シューマン(1819-1896)

器楽作品によるロマンスは、18世紀後半以降交響曲や協奏曲の緩徐楽章に用いられ始めますが、その後少し遅れて性格的小品としてのロマンスが流行します。性格的小品の早い例には、1786年に15歳のベートーヴェンが書いた『ロマンツェ・カンタービレ』がありますが、19世紀に入るとウェーバーやシューベルト、シューマン夫妻等、ドイツ・ロマン派の作曲家たちが好んで取り上げます。

それら芸術性が高いロマンツェがフランスにもたらされると、遅れてフランスの作曲家たちが追従し始めます。サン=サーンスは1866年に初めてロマンスを書き、生涯に6作品残しましたが、第1作目を書いた数年前(1862〜63)にクララと知り合っていることから、彼女に触発され書き始めたことが推察されます。
フルートのための『ロマンスOp.37』は第3作目にあたりますが、初演後もサン=サーンスはタファネルとともに幾度も再演を重ねます。1896年に開催されたサン=サーンス デビュー50周年公演でも取り上げられていることから、お気に入りの作品であったことがうかがえます。

メロディーの美しさが際立つこの作品は、非常にフレーズが長く、息の問題があるフルートならではの難しさがありますが、M.モイーズはこの作品について以下のように述べています。 レガートの美しさ、抑揚表現がポイントになりますが、感情のうつろいに身を任せ、自然な表現ができたら素晴らしいですね。

技術的にはそれほど難しい作品ではありませんので、初級者から上級者まで取り上げやすい曲だと思います。ぜひコンサートの1曲に加えてみては如何でしょうか。

サン=サーンス/ロマンスOp.37

清水 和高

東京藝術大学にてフルートを金昌国、細川順三各氏に師事。ジュネーヴ音楽院にてマクサンス・ラリュー氏に師事しプルミエ・プリを受賞し修了。これまで日本木管コンクール入選の他フランス、イタリアのコンクールにて入賞する。帰国後は世界各国の音楽祭や大学より招聘を受け、マスタークラス、公演を行う。2019年、マクサンス・ラリュー氏と世界初モーツァルト オペラ デュオ全曲レコーディングを行い、フランスSkarboよりリリースする。2012年16年にはイタリアで開催されたセヴェリーノ・ガッツェローニ国際フルートコンクール審査員を務める(第5回は審査委員長)。
現在、東京学芸大学教授、日本管楽芸術学会会員。