• Georges Enesco ジョルジュ・エネスコ

  • 国籍 ルーマニア 後に フランス
    父親 コスタシュ・エネスク
    母親 マリア・コスモヴィチ
    生年月日 1881.8.19 場所 リヴィニ・ヴェルナヴ(ボトシャニ県)ルーマニア
    死亡年月日 1955.5.4 場所 パリ フランス アタラホテル・スイートルーム(発見1955.5.4)
    作曲活動時期 1898〜1954
    活動の中心地 パリ、ルーマニア、アメリカ合衆国
    音楽史上の位置 ポスト・ロマン派 民族主義的印象派 新古典派、現代的な表現の様々な傾向が見られ定義は困難だが、ルーマニアの民族音楽の影響が強い。
    作曲上の特徴、技法 ルーマニアの民族音楽の特性とフォーレの下で養われたロマン性、和声的には印象派の傾向が強い。作品の中での音列はルーマニア音階が使われる傾向が強い。
  • 社会的賞与(勲章等)
    レジオンドヌール勲章 Chevalier 1929
  • 作曲以外の音楽活動   時期
    ヴァイオリニスト(12歳から)   1893〜1942頃
    指揮者   1898〜1943頃
    ヴァイオリン指導者
    フォンテーヌブロー ・アカデミー
    エコールノルマル
    各国でのマスタークラス
      1927〜1942頃

ジョルジュ・エネスコ

2021年パリ9区マルグリット・ド・ロシュシュアール通り、コンドルセ通り、テュルゴー通りに囲まれた三角形の小さな広場がジョルジュ・エネスコ広場と命名されました。

  • 《ジョルジュ・エネスコ広場/パリ》

エネスコは、パリ音楽院に入学してから第一次世界までほとんどこのパリ9区で過ごしました。近年、ルーマニア語表記のエネスクが使われることが多くなっています。ここではパリ時代の話が中心になるので従来通りエネスコと表記します。

父親は現在のモルドバの農民でボトシャニ県に土地を所有し、合唱団を作って指導していた。エネスコが4歳の時、地元のロマのヴァイオリンの名手ニコラエ・キオルからヴァイオリンの手ほどきを受ける。
5歳で初めてのコンサートに出演、父親はヤシ音楽院にエネスコを入学させ、作曲家で指揮者のエドゥアルド・カウデッラのもとで作曲を学ばせた。(現在ヤシ音楽院はジョルジュ・エネスコ芸術大学となっている)
さらに1888年ウィーン音楽院に入学、ここでは作曲をロベルト・フックスに、ヴァイオリンをヨーゼフ・ヘルメスベルガーに師事し1894年まで学んだ。エネスコは1893年から演奏活動を始め、12歳の少年の演奏はマスコミや観客を熱狂させた。ウィーン音楽院では銀メダルを獲得しフォーレの回で説明したヴァイオリニスト、アルマ・ハークネスやシャミナードの回のフリッツ・クライスラーと同様にウィーン音楽院からパリ音楽院へ留学する。
1895〜1899年までパリ音楽院で学ぶ。エネスコはもうすでに天才少年ヴァイオリニストとしてパリでも知られており、入学試験の段階で極めて多くの情報が当時の新聞記事にある事に驚いた。そして、パリ音楽院で師事したヴァイオリン科教授がシャミナードのデビューをお膳立てしたマルタン=ピエール・マルシック、作曲は最初マスネに師事し、後にフォーレのクラスに入った。この時代はパリ音楽院においてもまさにベル・エポック(良き時代)と言える時代で、有名な作曲家だけでなく、フルーティストも現代に名を残す名手たちがパリ楽壇で活躍する。エネスコがパリ音楽院で学んでいた時期はまさにフォーレのファンタジーが作曲された時期だが、まずはルーマニアの天才少年が見た、当時のパリ音楽院を説明したい。

パリ音楽院の規約

エネスコが入学した1895年の資料が発見できなかったので1898年のパリ音楽院の規約を少し説明する。基本的には1905年の音楽院改革まで変わっていない。
音楽科、演劇科(バレエを含む)の全学生数を700名とし、学期は10月1日から翌年の卒業コンクールが行われる7月まで。入学試験は10月15日から11月15日までの間に行われる。以下音楽科に関しての規約。
年齢制限があり、プレパラトワール(予備科)がピアノ科とヴァイオリン科に設置され9歳〜14歳までが入学可。本科は、ピアノ、ハープ、ヴァイオリン、ヴィオラ、フルート、オーボエ、クラリネットは18歳まで入学可。チェロは20歳まで。ハーモニウムは22歳まで。それ以外の器楽は20歳まで。声楽は、男声18歳以上26歳まで、女声17歳以上26歳まで。和声は22歳まで。外国人は年齢制限の上限に関しては2年プラスされる。全クラス人数制限在りで10〜12人。ここに外国人と聴講生、2名もしくは3名が含まれる。卒業コンクールに関しては、入学後半年の時点で試験があり、これに受からないと卒業コンクールは受けられない。全て上手くいくと最短で1年(1905年からは最短2年)で一等賞卒業となるが、一等賞受賞者にはもう1年間音楽院で学ぶ権利が与えられる。エネスコの時代、作曲科に入るためには各楽器の一等賞、もしくはピアノ予備科、ヴァイオリン予備科のメダル受賞、和声、ソルフェージュの一等賞かメダル受賞が必要なのだが、エネスコの場合ウィーン音楽院での銀メダル受賞があるのですぐに作曲のクラスに入ったと考えられる。最初はマスネのクラスに入った。しかし、フォーレの回で書いたように1896年の院長選の影響でマスネは音楽院を去りフォーレが教授になる。これによってエネスコはフォーレのクラスでモーリス・ラヴェル、シャルル・ケックラン、シャミナードの回で書いた女性作曲家トゥテンらと共に学ぶ事になる。
ヴァイオリン科の入学試験は1895年11月6日と7日に行われた。受験者は138名で本科に17人、予備科に13人が合格しているのだが発表された名前にとんでもないものを発見した。ヴァイオリン科の合格者にゴーベールがいる !!もちろんフルートのフィリップ・ゴーベールだ(詳しくはゴーベールの回で説明する)。
エネスコはフォーレのファンタジーが作曲された1898年、ヴァイオリン科の卒業コンクールを受けるが二等賞に終わる。翌1899年に一等賞となるがこの時の演奏は絶賛されアルマ・ハークネス同様にヴァイオリンが授与された(フランスのベルナーデル工房の楽器)。卒業試験は7月24日に行われ、課題曲はサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲3番とピエルネによる初見課題曲。この時代にはDistributions de Palmesというシステムがあり、全ての一等賞卒業者の中から特に優秀な学生には賞金も出る。1899年度にはトゥテンの和声の一等賞に対してDoumic賞120フラン、エネスコはJules Garcin 賞200フランとMonnot賞578フランを受け取っている。
実はエネスコ同様1898年に二等賞で1899年に一等賞となった器楽の優秀な学生が他にもいる。ピアノ科のアルフレード・カゼルラ(イタリア国籍)とガブリエル・グロブレーズ。1898年時点でカゼルラ15歳、グロブレーズ19歳、エネスコ17歳、カゼルラとグロブレーズは同じディエメという教授のクラスに在籍し(エネスコも師事していた)、カゼルラとグロブレーズもフォーレの作曲クラスに入った。

1900年のパリ万博とパリオリンピックの開催、メトロの整備でパリの街も音楽界も大きく変化するが、サロンでも変化が始まった。

1900年(以降)、ベル・エポック時代のパリ散歩・サロン編その2

サロンはさらに様々な場所で開催されるようになり、パリ音楽院の教授や活躍していた演奏家の個人宅などでも、より専門的あるいは実験的なコンサートが行われるようになる。また、楽器メーカーがホールを持つようになったり裕福な個人が大きなサロンを開放したり、特に規模が巨大化していったというのが特徴。前回シャミナードの時に説明したサロンに続き1900年以降第一次世界大戦までのベル・エポック期のサロンを紹介する。

シェ・エラールからサル・エラールへ
その前に1800年代のパリではチェンバロがほぼ使われなくなって消えていた事を説明しておく。当時の新聞記事のコンサートプログラムではバッハのフルートソナタやブランデンブルク協奏曲5番で必ずPianoと書かれているのに違和感があったのだが、実はほぼ全てピアノでの演奏だったようだ。前出のピアノ科教授ルイ・ディエメ(Louis-Joseph Diémer)は、ピアノのヴィルトゥオーゾとして、また室内楽や特にサラサーテの伴奏者として世界中を演奏旅行していたが、彼はこの時代に「絶滅楽器」となっていたチェンバロを個人的に収集しており、1889年のパリ万博で自身が所蔵していたチェンバロを展示演奏して、チェンバロのレパートリーの再発見さらに楽譜の出版に努めた人物。1895年に古楽器協会(Société des instruments anciens)を設立。これを機に、元々はチェンバロ工房からピアノメーカーになっていたエラール社がチェンバロの再製造を始める。エラールはハープのメーカーでもあり印象派以後ハープの需要も高まっていた。創業家のエラール家はパリ中心部にアパルトマン一区画分の邸宅をかまえ、居間として使っていた部屋は非常に広かった。エラール家のサロンはここで始まる。新聞記事で初期にはChez Érard(エラール宅)となっていて、広い居間(つまりサロン)に椅子を並べてコンサートを行った。エラールなのでピアノもチェンバロもハープもある。そして1877年に改装し500人程の席数のホールSalle Érardになった。現在も使われているが縮小されサロン部分のみが演奏会場となっている。

サル・ガヴォー
もう一つのピアノメーカー、ガヴォーも1905〜06年にホールを建てた。ここは私にとっては特に馴染み深いホールでパリ音楽院の一等賞卒業生によるオーケストラ(音楽院内ではオーケストラ・ド・プリ、公式にはOrchestre de Conservatoire National Supérieur de Musique de Paris らしいが直訳するとパリ音楽院管弦楽団になってしまい、一般的な和訳でのパリ管の旧名称 に相当してしまうので和訳が難しい)の定期演奏会会場になっていた場所。ここでも室内楽からオーケストラまで様々な形態のコンサートがおこなわれた。

オテル・ド・マッサ(Hôtel de Massa)
マッサ公爵(この時代は第3代マッサ公爵 Duc de Massa)が住んでいた館で、シャンゼリゼ大通りから入った小径にあった。マッサ公爵のサロンでは特にゴーベール、エネスコ、カゼルラ、グロブレーズが演奏していた。小編成のオーケストラが入れるほどのスペースがあったようだ。この建物は1929年世界恐慌のときに取り壊される事になったがパリ天文台の庭園に歴史的建造物として移設、保護されている。シャンゼリゼの跡地は現在デパートのギャルリ・ラファイエットになっている。実は今回の調査でこの建物の写真を見て「あっ!!!」と気付いた。私は何度もこの建物が見える通りを歩いている!

婦人伯爵ピレ=ウィル(La Comtesse Alexis Constantin Pillet-Will)のサロン
フランス銀行の総裁になったヒヤシンス=ルイ=アレクシス=コンスタン・ピレ=ウィル氏の夫人のサロンで、夫人は結婚以前(旧姓ルイーズ・ルーラン Louise Roulin)から有名なサロンを開いていた。毎週土曜日にディナー(150人くらいで!)の後にコンサートというスタイル。

エレーヌ・ビべスコ王女(La Princesse Hélène Bibesco)のサロン
エネスコのパリでの音楽家としてのキャリアはこの王女によって花開く。
この王女はルーマニア評議会議長の娘であり、アレクサンドル・ビベスコ王子と結婚した女性。ウィーン音楽院でピアノを学び、演奏家としてのキャリアを重ねたあとパリに移住する。パリでは芸術家全般、画家、作家、彫刻家、そして音楽家の大パトロンで、サロンでは自身ピアノを演奏し、ドビュッシー、サン=サーンス、フォーレらが集まった。そこへ祖国ルーマニアの天才少年エネスコがやって来た。1897年1月にはルーマニア大使館によるコンサートをお膳立てし、さらに作品の発表の場を作った。エネスコの作品番号1番となるオーケストラのための「ルーマニアの詩」は、ヴァイオリン科の卒業試験を受ける前の1898年2月6日にコンセールコロンヌで初演され、これが作曲家としてのパリ楽壇へのデビューとして新聞に取り上げられている。フォーレクラス在籍中でローマ大賞も取っていない17歳のヴァイオリニストが書いた曲をプログラムに取り上げる事など考えられない。このあたりもビベスコ王女の采配なのだろう。
この様なサロンの巨大化によって、サロンでのコンサートでもオーケストラが伴奏するソロ曲が増えていった。ベル・エポックでは「サロン」とはオーケストラが入れる大きさの部屋を言うのだ !
いずれにしろエネスコはあっという間にサロンで注目される存在となっていく。ゴーベールも1898年頃からサロンでのコンサートに登場し、カゼルラ、グロブレーズが加わって彼らは共演を重ねていく。とくにカゼルラはエネスコの伴奏でヨーロッパ各国を巡る事になる。
例として1900年にエネスコが出演したコンサート(1月〜7月)をまとめてみた。

1900年にエネスコが出演したコンサート

エネスコは1906年にトランペットの卒業試験課題と初見課題、ヴァイオリン予備科の初見課題を作曲してから卒業試験の審査員も務め、1908年にはヴィオラ科の卒業試験課題曲としてコンチェルトシュトゥック(1906年作曲)が使われ、1908年ホルン、1909年クラリネットの初見課題曲も書いている。

ここで、フォーレのファンタジーから始まった卒業試験のための新曲の流れを少し整理しておく。

1898年から1907年卒業試験曲

これらの曲でフォーレのファンタジーは1898年の他、1916、1925年の計3回、ガンヌのアンダンテとスケルツォは、1901、1905、1939年、エネスコのカンタービレとプレストは、1904、1921、1940年、ペリルーのバラードは、1903、1910年、ゴーベールのノクチュルヌとアレグロスケルツァンドは、1906、1923年と複数回卒業試験課題曲として登場している。1916、1939、1940年は戦争の影響があって新曲を使えなかったのかもしれないが、この様に複数回卒業試験で使われた曲はパリ音楽院とその教授陣、言い換えればパリ音楽院の歴史が認めた名曲と言えるのではないか。

フルート名曲研究所 第3回ではエネスコの他にデュヴェルノワ、ガンヌ、ペリルー、ピエール・カミュそしてディニクについても少し解説し演奏動画を公開する。

今回はアルフォンス・デュヴェルノワのコンチェルティーノ作品45とルイ・ガンヌのアンダンテとスケルツォの演奏です。


■フルート名曲♪研究所 | 第3回 A.Duvernoy , L.Ganne | Fl.加藤元章 生野実穂 Pf. 津田大介
A.Duvernoy:Concertino Op.45 /A.デュヴェルノワ:コンチェルティーノ作品45/ 商品ID:2931
L.Ganne:Andante et Scherzo/L.ガンヌ:アンダンテとスケルツォ/ 商品ID:1712商品ID:2931

アルフォンス・デュヴェルノワ(Victor Alphonse Duvernoy 1842〜1907年)

アルフォンス・デュヴェルノワはフォーレと同世代(3歳年上)で音楽家の家系に生まれた作曲家。祖父はシャルル(作曲、クラリネット)、叔父はフレデリック(作曲)、父はシャルル・フランソワ(バス、バリトン歌手)、弟はエドモン(ピアニスト、バリトン歌手)。パリ音楽院でピアノと作曲を学び、1855年にピアノ科で 一等賞、1880年に Le Tempêteでパリ市賞を受賞、1891年にレジオンドヌール勲章のChevalierを受賞している。パリ音楽院ピアノ科女性クラス教授および声楽担当教授。フルート作品はコンチェルティーノの他、2つの小品 作品41(Deux morceaux pour Flûte et Piano Op.41 1898年 Hamelle 初演1898年2月27日 献呈Hennebains)がある。コンチェルティーノ 作品45はフォーレのファンタジーの翌年1899年のパリ音楽院卒業試験課題曲。オーケストラ伴奏版として書かれ同時にピアノ伴奏での卒業試験課題として書かれたものと思われる。
曲はオペラを思わせるようなイントロダクションから、静かなレントの歌が始まり、トレモロ音形から美しいメロディーが浮かび上がるVifへと進む。Vifは2つのテーマと展開する中間部を持つ小規模なソナタ形式と考えられる。1899年卒業試験の結果はこちら



  • 作品名/編成 Concertino Op.45/Fl. Pf./Fl. Orch.
    献呈 P.Taffanel
    作曲年 1899
    出版社/出版年 Durand
    初演者/初演日/初演場所 パリ音楽院卒業試験課題曲1899.7.27 Conservatoire

ルイ・ガンヌ(Gustave Louis Ganne 1862〜1923年)

ルイ・ガンヌはフランスの地方都市ビュクシエール・レ・ミーヌで生まれた。ここは炭鉱の町で、父親が炭鉱で事故死し、母親は4人の子供を連れてパリへ移住する。貧しい生活の中、ガンヌはパリ音楽院に入学しデュボア、マスネに師事、1881年和声で 一等賞、セザール・フランクのオルガンクラスに入り、1882年 二等賞。一方でいわゆる軽音楽に興味を持ち、音楽教師をするかたわら生活のためにナイトクラブ等で演奏、20歳の時に有名なミュージック・ホール、フォリー・ベルジェールでの音楽を作曲。オルガニストとしては、シャミナードのコンチェルティーノのオケ版が初演されたトロカデロ宮のオルガンの披露演奏会に参加し絶賛される等注目される存在だったが、次第にカフェ・コンセールや舞台音楽の道へと進む。1899年、オペレッタ「サルティンバンク」の音楽の作曲で一躍有名になる。モンテカルロのオペラ座の立ち上げにかかわり、パリ音楽院の一等賞受賞者で構成されたオーケストラを設立、これは通称コンセール・ガンヌと呼ばれた。1906年には3幕のオペラ「笛吹きハンス」(Hans, Joueur de flûte)が大ヒット。1914年レジオンドヌール勲章のChevalier受賞。パリ20区にルイ・ガンヌ通りがあり、同様にディジョンとオーヴェール・シュル・オワーズにもある。出身地のビュクシエール・レ・ミーヌにはルイ・ガンヌ公園がある。
フルートのための作品は、アンダンテとスケルツォの他にフルートとピアノのためのヴィラネル(Villanelle pour flûte et piano 1891年 Enoch)がある。
アンダンテとスケルツォは、オペレッタ「サルティンバンク」で有名になった直後の1901年のパリ音楽院卒業試験課題曲として書かれた。
前半のアンダンテは、バルカローラの雰囲気を持つ3部形式になっており、最後にカデンツァが置かれ、カデンツァから後半のスケルツォになめらかに流れ込んで行く。スケルツォはロンドソナタ形式に近く、中間部で展開を見せ、アンダンテで使われた短調のテーマが長調になって回想的に登場したり、和声的には同じ和音を展開形にして倍音的な変化を付けたりと趣向を凝らした楽しい曲に仕上がっている。1901年卒業試験の結果はこちら

  • 作品名/編成 Andante et Scherzo /Fl. Pf.
    献呈 P.Taffanel
    作曲年 1901
    出版社/出版年 Costallat et Cie. 1901
    初演者/初演日/初演場所 パリ音楽院卒業試験課題曲1901.7.26 Conservatoire

カンタービレとプレストはアナリーゼとともに解説します。

ビゼーの墓の隣に眠る

第一次世界大戦でエネスコは1915年に出兵、ルーマニア人として戦地に赴いたようだが第一次世界大戦後はルーマニアの首都ブカレストとパリを演奏活動の拠点とし、アメリカでの指揮者としてのキャリアを積み重ねていく。
第二次世界大戦中はブカレストに居住し、ルーマニアの音楽家のための活動を続けるが1942年ルーマニアで「民族浄化計画」(ロマ民族を迫害、追放しようとする)が始まりこれに抗議して首相と対立、さらに大戦後、共産主義ルーマニア(1949〜1989年)国家樹立によりフランス、パリへ永久亡命する。
1955年5月4日、アタラホテルのスイートルームで死亡しているのが発見された。

近年明らかになってきた1939年の結婚から死去までの真実

《世界的ヴァイオリニスト、レジス・パスキエとイェフディー・メニューインの証言から》
1939年にエネスコはマルカと結婚する。マルカは、ルーマニア王妃マリーの侍女だった。18歳の時ミハイル・カンタクジーノ王子と結婚し2子をもうけたが、王子が不倫中にエネスコと関係を深め、王子が交通事故死してからは13歳年下の哲学者とも関係をもっていた。この哲学者とは破局、このショックから焼身自殺を図り、顔に大火傷を負い、精神的に不安定になる。焼身自殺の火中から救い出したのはエネスコだった。その後エネスコと結婚するが彼女は「エネスコ夫人」と呼ばれることを嫌い、周囲の人には「カンタクジーノ女王陛下」と呼ばせ、ぜいたくなパーティーを重ね散財していた。このためエネスコは困窮し借金だらけになっていた。第二次世界大戦後パリに亡命してからエネスコは健康状態も悪く、脊椎の問題でヴァイオリンが弾けなくなり、かろうじて指揮者として活動していた。この頃の住居は小さい2部屋とバスルーム(多分トイレとシャワー)はあるがキッチンの無い場所だった。エネスコは1950年に続き1954年に2度目の脳梗塞となり、マルカは「もうここにはおいておけない」とエネスコをホテルに追いやる。ホテルはパリ・アタラホテルだった。その人物が誰であるかを知ったホテルマネージャーが部屋代を無料にしたうえ、スイートルームに移し、介護スタッフを付け、心臓専門医を手配し、グランドピアノまで運び込ませた。看護師は後の証言で、「費用はベルギーのエリザベート王妃から払われた」と語った。1955年5月4日に亡くなるが、ずっと姿を見せなかった妻のマルカはすぐに公証人の下で遺産の手続きをしていた。そこへルーマニア大使館から「エネスコの遺体はルーマニアの国家財産だ」と引き渡しを迫ってくる。ホテルのマネージャーがすぐに警察に通報したことで遺体を確保した。マルカはその後ジュネーヴ湖畔の5つ星ホテルHôtel des Trois Couronneにしばらく住んでいた。エネスコの遺体はフランス政府によってペール・ラシェーズ墓地のビゼーの墓の隣に埋葬された。

<参考資料>

  • フランス国立図書館・電子図書館Gallica内Retro news
  • Rasfoiala.com.
  • International Enescu Society          
  • CER SI PAMANT ROMANES
  • Musica et Memoria
  • 調査協力、資料提供 中西充弥


G.エネスコ 対談(次回掲載予定)


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