• Ch-M.Widor シャルル=マリー・ヴィドール

  • 国籍 フランス
    父親 フランソワ・シャルル・ヴィドール
    (ハンガリー人の末裔 リヨンの教会付オルガニスト)
    母親 フランソワーズ・エリザベート・ペイロン
    アノネー定住のイタリア人の出身
    発明家の一族(モンゴルフィエの親戚)
    生年月日 1844.2.21 場所 サラ通り19番地
    1844.2.21の夜中の2時に生まれているので、後に本人が2月22日と主張
    死亡年月日 1937.3.12 場所 パリ サン・シュルピス教会の地下に埋葬
    作曲活動時期 1865〜1934
    活動の中心地 パリ
    音楽史上の位置 ロマン派
    作曲上の特徴、技法 ロマン派の作曲スタイルの中にバッハ的対位法を内包。
    オルガンをオーケストラのように扱う「オルガンシンフォニー」を創り出す。
    フランスの古典的な組曲のスタイルを好む。
  • 社会的賞与(勲章等)
    レジオンドヌール勲章 Chevalier 1892
      Officier 1922
      Commandeur 1929
      Grand Officier 1933
    L’ordre de la Couronne(ベルギー) Grand Officier 1935
    L’ordre des Christ(ポルトガル) Chevalier  
  • 作曲以外の音楽活動   時期
    オルガニスト リヨン・サン・フランソワ・ド・サル 1860〜1863
      パリ・マドレーヌ寺院(サン=サーンスのアシスタント) 1868〜1869
      サン・シュルピス教会 1870〜1933.12.31
    音楽評論家 ペンネーム Aulètes(新聞 L’Estafette) 1880〜?
    パリ音楽院オルガン科教授
    (フランクの後任)
      1890〜1896
    パリ音楽院作曲科教授   1896〜1927
    フランス学士院会員   1910.10.29〜1937
      終身書記 1914.7.18〜1937
    アメリカ音楽院
    (フォンテーヌブロー)
    音楽院院長 1921〜1934

シャルル=マリー・ヴィドール

シャルル=マリー・ヴィドール通り(Rue Charles-Marie-Widor)はパリ16区ブーローニュの森の近く、シャルドン・ラガッシュ通り(Rue Chardon-Lagache)からボワロー通り(Rue Boileau)までの60メートルの道です。

  • 《シャルル=マリー・ヴィドール通り/パリ》

祖父がパイプオルガン製作者で、父親は祖父のパイプオルガン製作を一旦引き継ぐが、オルガンの演奏も素晴らしく、シャルル=マリーが生まれるとリヨンの教会オルガニストになる。そしてパリでオルガンの演奏会を行い、ここで有名なオルガン製作者カヴァイエ=コルと知り合う。父親はリヨンに戻り、教会に対しカヴァイエ=コルの新しいオルガンを設置する事を進言する。リヨンは教会やオペラ座を中心として演奏家たちの協会が幾つか活動するなど文化的な都市だった。シャルル=マリーは弟のポール共々学業は優秀、ラテン語とギリシャ語に精通し、アマチュアではあるが画家としての一面も備えていた。そして父親からオルガンの手ほどきを受け、16歳でサン・フランソワ・ド・サル教会のオルガニストとなり、新設されたカヴァイエ=コルのオルガンを弾くことになる。ある時リヨンを訪れたカヴァイエ=コルを父親が食事に招待し、この時シャルル=マリーはブリュッセル音楽院で学ぶ事を勧められる。そしてフランソワ=ジョセフ・フェティスに作曲を、フェティスの弟子でありオルガンの名手(特にペダルでの足さばきに定評がある)ジャック=ニコラ・レメンスにオルガンを師事する事になる。フェティスは、ベルギー人だがパリ音楽院で学び、パリ音楽院で対位法、フーガの教授を務め、パリでルヴュー・ムジカル(Revue musical後にRevue et gazette musical de Paris)という音楽週刊誌を出版していた。後にベルギーに帰国、ブリュッセル王立音楽院の初代院長となる。音楽評論家でもあり、音楽史家でもあった。彼はパガニーニと親しく、パガニーニのパリでのコンサートに尽力しており、この時代のパガニーニに関する記述で、内容的に信頼のおける様々な記述を残している。そしてパガニーニのヴィルトゥオーゾに魅せられた人でもあった。レメンスはフェティスの弟子であり、そういったヴィルトゥオーゾの世界観はフェティスから弟子のレメンス、ヴィドールへと伝承される事になる。

オルガン製作者カヴァイエ=コル

  • 《カヴァイエ=コル》

歴史に名を残す世界最高のオルガン製作者で、50年間でフランス国内に150のオルガンを作った。さらにスペイン、イギリス、オランダ、ロシアでもオルガンを作り大小合わせるとその数は600に及ぶ。

アリスティド・カヴァイエ=コル(Aristide Cavaillé-Coll 1811〜1899)はトゥールーズのオルガン製作者の家に生まれ、ロッシーニと知り合うことでパリへ移りオルガン製作を始める。各教会には古くからオルガンはあったのだが老朽化してきた時代でもあり、修復、改装が行われる時代になっていた。フェティスによると当時パリの教会のオルガンの状況は極めて悪く、パリ音楽院のオルガン科に関しては痛烈な批判をしている。パリに新作オルガンのお披露目ができるような大きなアトリエを作り、教会に設置されたオルガンを含め、新作オルガンのお披露目はヴィドールが弾くことがほとんどだった。彼が造ったオルガンで特に有名なものは、マドレーヌ寺院(1846年)、サント・クロチルド聖堂(1859年)、サン・シュルピス教会(1862年)、ノートルダム大聖堂(1863-1868年)、シャミナード回で書いたトロカデロ宮殿(フランス初のコンサートオルガンで超巨大)など。エネスコ回で紹介した、私が演奏していたパリ音楽院の卒業生オケの定期演奏会会場になっていたSalle Gaveauのオルガンも最初はカヴァイエ=コル作(1900年)のものが設置されていたが1957年に移設、以来音の出ないハリボテのフェイクオルガンが壁に張り付いている。パリ市内を観光し、ちょっと教会でも入ってみようかな…と大きな教会に入ればそこに必ずカヴァイエ=コルのパイプオルガンがある。

2019年4月15日、ノートルダム大聖堂は炎に包まれた。パリで10年過ごした私としては全く信じがたい事だった。ノートルダムにはメインの大オルガンと聖歌隊の伴奏用の小オルガンの2つが設置されている。有名なステンドグラス「バラ窓」を背景にそびえ立つ大オルガンも燃えはしなかったものの、消火活動で大きなダメージを受けた。元々は1733年から設置されていたものだが1868年にカヴァイエ=コルが再建、当時のこのオルガンのお披露目(楽器の性能確認審査)はヴィドールが行っている。直後の3月6日のオープニング・リサイタルでは、ロレがバッハを、サン=サーンス、フランク、ギルマンが自作の曲を、最後にヴィドールが即興演奏でしめくくった。この時ヴィドールはまだリヨンの教会のオルガニストである。

ノートルダムのパイプオルガンの修復は、完全分解してパイプ1本ずつ修復することから始めたが、その数は約8000本にのぼる!!2024年12月7日、完全修復されノートルダム大聖堂の再開に合わせて、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」でこのオルガンは高らかに復活の響きを歌い上げた。カヴァイエ=コルが作ったパイプオルガンは音量と音の持続時間がそれまでの楽器に比べて大幅にアップし、作曲家達もオーケストラ曲にパイプオルガンを取り込むようになる。

  • 《ノートルダム大聖堂のオルガンとバラ窓》

オルガニスト ヴィドール

カヴァイエ=コルは、オルガンの天才少年ヴィドールが将来パリの教会オルガニストの中心的存在になる事を夢見た。カヴァイエ=コルが考えたプランはバカロレア(高等教育資格、日本の大検 /高等学校卒業程度認定試験のようなもの)を取得したらブリュッセル音楽院に留学し、フェティスに作曲を、親しい友人でもあるレメンスにオルガンを師事する。それが最高の教育と考えた。ところがブリュッセル音楽院はこの当時外国人は受け入れていなかった。ひょっとしたらそのあたりを含めてバカロレアを持っていて、音楽院院長に学べるようにしておけばなんとかなると考えたのではないか ?実際パリ音楽院では曖昧な特例で(正式には入学していないが)在学生と変わらずレッスンを受けていた例がある。学びたい優秀な若者には寛容だった。記録ではレメンスがヴィドールに課したオルガンの特訓は、練習時間が1日に8時間に及んだという記述があるが、だいたいフルートと違ってパイプオルガンの場合、オルガンが設置された場所が無ければ練習もレッスンもできないので実質ブリュッセル音楽院に通っていたとしか考えられない。

ブリュッセルからリヨンに戻ったヴィドールはその超絶技巧演奏で一気に有名になり、すぐにパリのマドレーヌ寺院で首席オルガン奏者だったサン=サーンスのアシスタントとしてオルガニストのキャリアをスタートさせる。1870年からはサン・シュルピス教会の正オルガニストになる。マドレーヌ寺院のオルガンもカヴァイエ=コル製作の物だが、サン・シュルピス教会のオルガンは、教会のオルガンとしては現在でも世界最大級、ストップ(音栓)が118ある怪物オルガンで、その圧倒的な音色の種類と倍音の豊かさにヴィドールは魅了され、89歳で引退するまでの63年間をこのオルガンと過ごす事になる。

  • 《サン・シュルピス教会のオルガン》

  • 《サン・シュルピスのオルガンを弾くヴィドール》

サン・シュルピス教会

ノートルダム大聖堂に匹敵する規模の聖堂を!!として造られた教会で、パリ子午線をしるした「サン・シュルピスのグノモン」と呼ばれるオベリスクが設置されている。礼拝堂の天蓋や壁には、ドラクロワの「天使とヤコブの戦い」等の絵が描かれている。映画「ダヴィンチ・コード」にも登場する。ヴィドールがサン・シュルピス教会のオルガニストに就任したのは普仏戦争の直前だった。普仏戦争ではパリもプロイセン軍からの砲撃を受けている。兵役を終了していなかったヴィドールは、すぐに砲兵隊に配属されてパリ北部のサン・ドニで参戦するが、その中で礼拝のためにサン・シュルピス教会に戻ってオルガンを弾いた。礼拝堂の天井には砲撃による大きな穴が2つ空いた状態だった。礼拝は地下室で行われた。さらに普仏戦争が終わるとパリ・コミューンの乱が起きた。教会関係の事では、ダルボワ大司教が殺害され全ての教会は占拠された。こんな中で必死に教会オルガニストを務めたという体験もヴィドールがこの教会から離れなかった一因かもしれない。そしてオルガンをオーケストラに見立てて創り出したヴィドールの「オルガン・シンフォニー」の概念は、このサン・シュルピス教会の怪物オルガン無しでは発想も出来なかったかもしれない。サン・シュルピス教会の正オルガニスト就任の翌1871年からはアシスタントとしてフォーレ(1874年まで)が就任するが、この2人、しょっちゅう即興演奏合戦を繰り広げ、特にどの様に転調させるかを競い合っていたという。これは礼拝中の音楽の中で行われており、その場の聴衆は気にも留めなかったようだ。「ん?なんかちょっと聞いたことのないメロディーだな…」という感じだろう。

  • 《サン・シュルピス教会》

  • 《奥にパイプオルガン》

  • 《ドラクロワの絵》

組曲 Op.34

フォーレの回で書いたが、タファネルが同い年、フォーレは1歳年下で、この3人は全くの同世代。タファネルとは、Société de musique de chambre pour instruments à vent(管楽室内楽協会1879年タファネルによって設立)でのピアニストとして、あるいはオルガニストとしての参加でも親密であり、この2人の共演も多かった。特に組曲 Op.34の共演回数は多く、1900年までで記録にあるものはほぼタファネルとヴィドールによる演奏。タファネル死後は、ゴーベールとの共演となる。「原曲」といえる曲が作曲されたのは1884年で、「原曲」の初演は1884年4月10日、サル・プレイエルで行われた管楽室内楽協会の第5回目のコンサートにてタファネルとヴィドールの演奏で行われた。翌1885年の記録では曲の構成がPrélude、Romance、Scherzo、Finalとなっている。一曲目の題名が現在のModeratoとなったのは1888年の記録からで、この構成で1891年にHamelleから一度出版されるのだが、その後、内容的にかなり変更されて1898年にHamelleから再販される。これが現在演奏される楽譜。この2つの版の相違点に関してはアナリーゼの回で説明する。また1897年にはHeugelからRomanceだけが出版され、この曲だけの演奏をタファネルとヴィドールで行っている事が判明。また1914年には2曲目のスケルツォをオーケストラ伴奏版に編曲している。

Fl. Vn. Vc. Pf. Harmoniumによる5重奏曲、セレナード作品10は、 現在ほとんど演奏される事の無い曲だが管楽室内楽協会のコンサートでかなりの回数演奏されており(フルートはほぼタファネル)、この時代のレパートリーとしてしっかり定着、1900年以降ではゴーベールのフルートで演奏する機会が多かった。ちなみに一例として1872年2月18日にグランドホテルで行われたコンサートでは、Fl.ドンジョン、Vn.ロイ、Vc.ダンベ、Pf.フォーレ、Org.ヴィドール。そして4月6日にはFl.タファネル、Vn.ラムルー、Vc.フィッシャー、Pf.サン=サーンス、Org.ヴィドールで演奏されている。この時代のパリ音楽界でも人気の作品となり、ヴィドール本人の手により様々な編成に編曲された。

  • 作品名/編成 Suite Op.34(Op.34-No.1〜4) Fl.Pf.
    献呈 P.Taffanel
    作曲年 1884/1891〜1898
    出版社/出版年 Hamelle /1891/1898
    初演者/初演日/初演場所 管楽室内楽協会1884.4.10 / サル・プレイエル
    Fl. P.Taffanel Pf. Ch-M.Widor

パリ音楽院そして芸術アカデミー

1880年からヴィドールは、エスタフェットという新聞で評論家として活動(ペンネーム Aulètes)したが、これもまた、ブリュッセル王立音楽院での作曲の師であるフェティスが辛辣な批評で有名な評論家として活動していた影響といえる。1890年フランクの後任としてパリ音楽院のオルガン科教授になる。1892年にはレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを受賞している。 1896年、パリ音楽院ではトーマの音楽院長退官からテオドール・デュボアが院長に就任、このデュボアの後任としてヴィドールが作曲科教授となる。フォーレも同年作曲科教授になっている。2人とも当時としては革新的な作曲家であった。 パリ音楽院の作曲科の教授はフォーレ、ヴィドール、そしてもう一人ルヌヴー(Charles Lenepveu)だった。フォーレ門下からは、エネスコ、ラヴェル、カゼルラ、グロブレーズらを、ヴィドール門下からはオネゲル、エドガー・ヴァレーズ、ミヨー、メシアンらを、ルヌヴー門下からはアンドレ・カプレ、ゴーベールらを輩出した。実はルヌヴーは1905年のラヴェル事件(フォーレが院長に就任するきっかけ)にかかわっていた。どうやらルヌヴーはパリ音楽院の出身ではないフォーレとヴィドールを軽蔑していたふしがあり、一方ですでに芸術アカデミーの会員でもあり、ローマ大賞の審査をする側の人間なので、一段高い所からの目線でこの2人を見ていたようだ。そんな中で自分の生徒以外全員をローマ大賞本選から排除する事を画策していたという事が明らかになった。これがローマ大賞スキャンダルの根源で、発覚後当然教授職は辞任した。

ヴィドールは、オルガン科教授としてもヴィエルヌやビュセールら優秀な人材を育てたが1900年以降に大きな転換期を迎える。それは1910年に芸術アカデミーの会員(音楽部門)となり、1914年には終身書記長になったことだった。終身書記長の仕事は音楽だけではなく美術、建築、例えば演奏会ホールの新設、美術館の新設、得意部門として新しいパイプオルガンの設置などにも関わり、アカデミーの芸術部門全体の監理官でもある。えらいのである。ところが終身書記長就任直後、第一次世界大戦が勃発する。まるでサン・シュルピス教会のオルガニスト就任直後の普仏戦争の時の再来で、再びパリが砲火に見舞われる。この中でフォーレの回で説明した、出兵したパリ音楽院の学生たちの安否を報告する作曲クラスの新聞の編纂、アカデミーの終身書記長としてパリ市内にある美術品の地方への避難指示、サン・シュルピス教会での演奏継続、という日々を送る。
第一次世界大戦後、各国政府の文化省、美術館、ホール等との交流が増えると、そういった事業に出資する富豪(ロスチャイルド家など)や各国国王、大臣らとの人脈が太く広がっていくが、あくまで一人の音楽家としての生き方を貫いた。多調性の複調性曲やラテン音楽を取り入れたダリウス・ミヨーや、全く新しい音世界を作り出したエドガー・ヴァレーズ等革新的な門下生を生む一方、本人はロマン派の手法を堅持し、そこにバッハ的な対位法を内包させる作風を変えなかった。フォーレのファンタジー同様、通常のイタリア語表記の音楽用語の使用を貫いた。芸術アカデミーの終身書記長としてアメリカ軍の軍楽隊との関係が出来、そこからフォンテーヌブローにアメリカ音楽院を作る事になりフランシス=ルイ・カサドシュと共に1921年にアメリカ音楽院設立、初代院長となる。

サン・シュルピス教会に眠る

1937年3月12日(金)、夜8時にシャルル=マリー・ジャン=アルベール・ヴィドール永眠、享年93歳。

立場的に国葬になるべき人物だったが本人の遺言でこれを辞退、サン・シュルピス教会での単旋聖歌によるレクイエムの中での葬儀を希望した。弟子のデュプレは、サン・シュルピスのパイプオルガンでバッハを弾いた。
ヴィドールは質素な棺におさまり、礼拝堂の天蓋のドラクロアの絵を見上げながら、そして一生を共に生きたオルガンの響きを聴きながらサン・シュルピス教会の地下に眠っている。アカデミーのヴィドール名の椅子は今後も永遠に存在し続ける。

今回はタファネルに捧げられた組曲 Op.34と共にもう一つの組曲、Suite Florentine(スイート・フロランティーヌ/フィレンツェ組曲)を動画で紹介します。この曲はいくつかの音楽辞典(グローブなど)で「フルートまたはヴァイオリンのための」としてリストアップされているのですが、出版譜(Hamelle)としては現在ヴァイオリン版しか確認できません。ヴァイオリン版をそのまま演奏するには音域的に無理がありますが、2016年にUniversal Editionからエマニュエル・パユ・コレクション(フルートパートはRien de Reede編曲)としてフルート版が出版されています。今回は現存するヴァイオリン版に近い形に加藤元章が編曲した演奏で紹介します。アナリーゼでは組曲Op.34を扱います(動画も公開)。この2曲は30年以上の時を隔てて作曲された組曲ですが、ロマンチシズムあふれる名曲でヴィドールの人生と世界の様子の変化が垣間見えるような2つの作品です。その違いをお楽しみ下さい。
ヴィドールがかかわったパリ音楽院卒業試験課題曲と卒業試験に関するデータ


  • 作品名/編成 Suite Florentine /Vn. Pf.
    献呈 Majesté la Reine HÉLÈNE d’Ilalie
    作曲年 1919
    出版社/出版年 Hamelle
    初演者/初演日/初演場所 エリゼ宮殿/1919.2.20/Vn.? Pf. Ch-M.Widor

■フルート名曲♪研究所 | 第4回Charles-Marie Widor | Fl.加藤元章 Pf.野間春美
Suite Florentine /フィレンツェ組曲 / 商品ID:32826
※YouTubeの概要欄に曲の解説があります。
※演奏動画での使用楽譜は、ヴァイオリン版をもとに加藤元章が編曲。

<参考資料>

  • フランス国立図書館 電子図書館Gallica 内Retro news
    Musica et Memoria
  • The life and Time of Charles-Marie Widor
    Andrew Thomson 著 オックスフォード大学出版部


Ch-M.ヴィドール 対談(次回掲載予定)


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