• Cécile Chaminade セシル・シャミナード

  • 国籍 フランス
    父親 ピエール・イポリット・シャミナード
    (イギリスの保険会社グレシャム(Gresham)のフランス総監)
    母親 マリー=ステファニー・クールタン(貴族出身)
    生年月日 1857.8.8 場所 パリ バティニョール地区
    死亡年月日 1944.4.13 場所 モンテカルロ(モナコ公国)
    作曲活動時期 1879〜1920
    活動の中心地 パリ、ロンドン、アメリカ合衆国
    音楽史上の位置 ポスト・ロマン派(終期ロマン派〜印象派)
    作曲上の特徴、技法 メロディーの美しさが際立ついわゆるメロディーメーカー。和声進行にMarche Harmoniqueを多用、和声自体はやや印象派的な要素も見られる。数多いピアノ曲では、速い動きが随所に見られショパン風の作品が多い。
  • 社会的賞与(勲章等)
    アカデミー Officier 1886
    教育功労賞 Officier 1892
    レジオンドヌール勲章
    女性作曲家として初めて
    Chevalier 1913
  • 作曲以外の音楽活動   時期
    ピアニスト   1877〜1914

セシル・シャミナード

2021年パリ市内のクリシー広場からバティニョール大通りにかけての中央分離帯の遊歩道がプロムナード・シャミナードと命名されました。

  • 《プロムナード・シャミナード/パリ》

1844年、パリはティエールの城壁によって囲まれた。その城壁の近く、モンマルトルの丘のふもとのバティニョール地区で1857年にシャミナードは生まれる。ここは城壁の内側のパリ市内だが、まだ周囲にはアパルトマンタイプの5〜6階建ての建物は建っておらず、郊外といってもよい場所だった。両親とも音楽愛好家で、父親はヴァイオリンを弾き、イギリスの保険会社グレシャム(Gresham)のフランス支店の総監(inspecteur général)という人物、母親は貴族出身でピアノと声楽をたしなむ、かなり裕福な家庭だった。セシルは最初母にピアノを習った。セシルが8歳の時、父はパリの西20kmにある新興の庭園都市ル・ヴェジネに別邸を建て、彼女はここで幼少期を過ごす。この別邸は6700m2の広大な敷地に建つ豪華な3階建ての邸宅で1階にアップライトとグランドピアノが置かれたサロン、3階には使用人たちの部屋とセシル専用の音楽室があった。ル・ヴェジネにはビゼー一家が住んでおり、シャミナード家とビゼー家の母親同士が懇意にしていた事からビゼーを介して音楽家との交流が始まる。2週間ごとに有名音楽家たちを招いて晩餐会を開いていたが、ここにはサン=サーンス、ビゼー、ゴダール、ヴァイオリニストのマルシック(ヴェジネに住んでいた)らが集っていた。セシルは特にビゼーにかわいがられ、ビゼーは彼女の才能に注目しており、パリ音楽院への入学を両親に進めるが、父親はブルジョワジーの女子は結婚し家庭に入るものだという考え方が強く、音楽院入学を断固として拒否する。ビゼーは、それでもパリ音楽院の教授たちに頼み込んだ。1860〜1890年頃はパリ音楽院の入学に厳格な規定がある一方で、いわゆる聴講という形で教育を受けられたり、音楽院長の許可があれば普通にクラスでのレッスンも受けられた事例があり、おそらく実質的には普通の学生同様のレッスンを受けられるようにビゼーが取り計らったものと思われる。しかし結局、ピアノをフェリックス・ル・クーペ、和声と対位法をオーギュスタン・サヴァールの2人のパリ音楽院教授にプライベートで師事する事になる。シャミナード家の晩餐会に通っていたマルシックとゴダールには以前からそれぞれヴァイオリンと作曲のレッスンを受けていたが、そのまま継続する事になった。またセシルはマルシックの伴奏や室内楽をよくやっていた。パリ音楽院の教授たちに接することで音楽への熱意は一気に高まる。ピアノはかなり優秀だったようで、師であるル・クーペは彼女の父親に配慮しつつセシルに演奏させるため「ル・クーペのクラスのコンサート」と題した演奏会を開いてセシルを出演させてもいる。しかしあくまでも父親は音楽家への道に反対していた。音楽の専門教育の道をセシルに開いて、ビゼーは1875年に亡くなった。マルシックは1877年にマルシック弦楽四重奏団を結成するのだが、実はその時、全ての準備は整っていた!!父親が長期の旅行で不在の1877年5月10日、サル・プレイエルでのマルシック弦楽四重奏団の演奏会でセシル・シャミナードはピアニストとして鮮烈にデビューする。プログラムはベートーヴェンのピアノトリオとヴィドールのピアノトリオ。20歳の時だった。これを機にピアニストとしての活動を始め、翌年にはル・クーペが「私の生徒の」という題名を付けてシャミナードの作品展を開催、自分の作品の初演という形で一気に作曲家としての活動も活発になる。一旦世に出てしまうとそのピアニストとしての才能、次々に発表される美しいメロディーの歌曲や親しみやすいピアノ作品、なによりこの時代に注目される事の無かった「女性作曲家」として知名度が上がり、1882年には、ついにシャミナード家(パリ市内の)でのサロンコンサートを、音楽家になる事に大反対していた父親の主催で行う案内が新聞で広告されている。父親が観念してしまうと、父親自身がセシル・シャミナードの父親として有名になっていく。次第に父親の会社グレシャム本社のあるイギリスでの活動も増える。1890年頃になるとオーケストラ曲、歌曲、室内楽曲、ピアノ曲が次々と発表され、デビュー当時は自演だったものが色々な演奏家によってどんどん演奏されるようになり、作品は独り歩きし始める。1892年からほぼ毎年6月にロンドンに滞在してコンサートを行い、ヴィクトリア女王に招待され、ウィンザー城に滞在したりしている。コンチェルティーノを書く前の年1901年に楽譜商のルイ・マチュー・カルボネル(Louis-Mathieu Carbonel)と結婚。セシル・シャミナード44歳、カルボネル61歳。カルボネルは6年後に他界。1908年には自作のピアノとオーケストラのためのコンチェルトシュトゥックの演奏でアメリカ・デビュー(フィラデルフィア管弦楽団との共演)を果たす。

第一次世界大戦が勃発するとロンドンの病院の経営を引き継ぎ、以後作曲は続けたが演奏することは無くなった。

シャミナードは、普仏戦争後からベルエポックを経て第一次世界大戦までを駆け抜けた音楽家だが、この急激に移り行く時代で、特に女性作曲家が一人の音楽家として生き抜くためにはかなり大きな障害があった。例えばパリ音楽院では、ピアノ科(予備科も)と和声が男女別クラスになっていて卒業試験の課題も別だった。作曲科は、1840年頃までは女性の入学は許可されず、それ以後は規約があいまいで1852年に和声、オルガン科、作曲科を一括管理するようになった時に男性、女性の規定が無くなり正式に女性も入れるようになったが受験者はほとんどいなかった。フルート科の場合は元々男性、女性の規定が無かった様だが、初めて女性が入学した時期はもっと遅く、1910年入学1913年卒業のルネ(René)が女性として最初の学生。完全に男社会の傾向が強いのだが、見方を変えれば少なくともパリ音楽院においては「作曲の基礎としての和声クラスとピアノ科に女性クラスを作った」のはこの時代に未来を見据えて女子に門戸を開き教育の可能性を考えていたとも言える。地方都市では各教会のオルガニストにかなり女性がいたようでピアノからの転向と思われる。(この時代、教会での音楽に原則女性はかかわれない。フォーレが学んだニーデルメイエール宗教音楽学校は男性のみ)。とにかくシャミナードは、パリの楽壇に登場すると凄い勢いで「売れた!!」。一方で、どうも周りの(男性の)作曲家たちからはかなり嫉妬され、不当な扱いをされていたようだ。シャミナードがデビューした1877年からフォーレが多忙な中でファンタジーを書いた1898年までの間で比較すると、本人による初演作品、他の演奏家による演奏など作品数と演奏回数ではフォーレに対してシャミナードの圧勝!!なのが当時の新聞から分かる。さらにアメリカではファンクラブが幾つも出来たが、観客満杯のアメリカツアーでの新聞評でも不当な扱いを受けている。
「サロン」というものは1830〜1850年頃に定着したと考えられる。ブルジョワジーの女性が曜日を決めて自宅で演奏会を開くというもので、おそらくシャミナード家での晩餐会でもこれだけの音楽家がそろえば自然に「サロン」になっていたのだろう。シャミナードは当然サロンでも引っ張りだこなのだが、師であるル・クーペ、ゴダールやサン=サーンスは、他の作曲家たちからのやっかみを払いのけ、国民音楽協会や当時設立され始めたオーケストラのコンサートでの楽曲初演の道を作っていたようだ。

パリ音楽界の様子

ここでシャミナードのデビューからコンチェルティーノまでのパリ音楽界の様子を少し説明する。1877年から1902年なので前回のフォーレのファンタジー作曲の時期でもあり、サロンでのコンサートが華やかな時代だ。ちなみにシャミナードはフォーレより12歳年下。

まずサロン --- 1900年頃のパリ散歩・サロン編

サロンは曜日を決めて人を招いてコンサートや詩の朗読を楽しむスタイルで定着した。フォーレの回でも書いたがフォーレが足しげく通ったのはヴィアルドー家やカミーユ・クレール家のサロンだったが、いくつか他の有名なサロンを紹介しよう。

マルグリット・ド・サン・マルソー夫人のサロン(1870〜1930年頃)。「サン・マルソー夫人の金曜日」と呼ばれる。この人はフォーレを経済的に援助していた人で、例えばバイロイトへの旅費などを出している。その関係でフォーレ門下のラヴェルやピアニストのヴィニェス、ドビュッシーが常連。

グレフュール伯爵夫人のサロン(1880〜1910年頃)。フォーレ、タファネル、イザイ(Vn.)、ピエール・モントゥ(Vc.)、ディエメ(Pf.)、1900年以後にはコルトー(Pf.)、若いカゼッラら演奏家が多く集まった。

ド・ポリニャック大公妃の2つのサロン(1887〜1931年頃)。この人はパリ音楽界の大パトロンで、国民音楽協会、オペラ座、パリ音楽院管弦楽団に出資していた。有名なマリー・アントワネット時代のポリニャック大公妃ではなく、第3代ポリニャック大公の王子エドモンと結婚したシンガー・ミシンの創設者の娘にあたる女性、エドモンはパリ音楽院で作曲を学んだ人物で、サロンにはオルガンが設置され、ヴィドール、フォーレの他、当時前衛作曲家とされていた人たちが多く集まり、新作の発表の場として重要な役割を果たした。シャブリエ、若いプーランク、ストラヴィンスキーらが集まった。

マドレーヌ・ルメールのサロン(1890〜1910年頃)。「詩と音楽の火曜のマチネ」と題してコンサートが行われた。本人は女性の画家で、初めのうちは単なる楽しみ程度のサロンだったがサン=サーンス、マスネ、ゴーベールが集まるようになり、人気のサロンとなった。

もう一つは民間のオーケストラが出来た事

フォーレの回で普仏戦争(1870、71年)後の国民音楽協会発足は説明したが、フランス最古の民間オーケストラとして1861年にコンセール・パドルー(Concerts Pasdeloup)が出来た。主催者のパドルー(Jules Étienne Pasdeloup)はヴァイオリニストでありピアニストで、最初パリ音楽院の学生を集めてConcerts populaires de musique classique(クラシック音楽の民衆の音楽会、みんなの音楽会?当時、一般民衆は演奏会から排除されていた)として始まり、シルク・ディヴェール(Cirque d’Hiver)を演奏会場とした。安い入場料で、親しみやすい曲を演奏していた。シャミナードのオーケストラ作品は、ここでほとんどが初演されている。国民音楽協会発足直後1873年にはコンセール・コロンヌ(Concerts Colonne)がエドゥアール・コロンヌ(Édouard Judas Colonne)によって設立。コロンヌはヴァイオリニストで、パリ・オペラ座のコンサートマスターから第一指揮者になり、退官してこのオーケストラを作った。最初はConcert Nationalと言う名でオデオン座で演奏、同年メインの演奏会場をシャトレ座に移しConcerts du Châteletとなり1892年にはコンセール・コロンヌとなる。もう一つコンセール・ラムルー(Concerts Lamoureux)が、1881年ヴァイオリニストで、コロンヌの前任のオペラ座第一指揮者でもあったシャルル・ラムルー(Charles Lamoureux)によって設立。最初は新演奏協会(la Société des nouveau concerts)としてスタートした。ランパルが録音したイベール、ジョリヴェ、リヴィエのコンチェルトはコンセール・ラムルー管弦楽団との共演。これらのオーケストラは現在も活動している。さらにコンセール・トゥーシュ(Concert Touche)というやや小編成のオーケストラが1889年に設立された(1918年まで活動)。バンジャマン・ルージュ(Benjamin Rouge)によって設立されたので最初はコンセール・ルージュという名だったがフランシス・トゥーシュの指揮、兄弟でパリ音楽院ヴァイオリン科教授のフィルマン・トゥーシュの協力で運営し、オテル・ド・ブランカス(Hôtel de Brancas)という大邸宅でコンサートを行った(建物は現存)。

作曲に関して多大な影響を受けた師、バンジャマン・ゴダール(Benjamin Louis Paul Godard 1849〜1895)はシャミナードより8歳年上で、幼いうちからアンリ・ヴュータンにヴァイオリンを師事、パリ音楽院で作曲とヴァイオリンを学び、1878年、劇的交響曲Le Tasseでパリ市賞を受賞(この後音楽院院長になるデュボアと賞を分ける)、1887年にパリ音楽院室内楽科の教授に就任し1888年にはジョスランの子守歌で知られるオペラ、ジョスランが初演され一躍有名作曲家になる。またヴァイオリン、ヴィオラ奏者としても活躍した。1889年にレジオンドヌール勲章を授与されたが1892年に結核を患い引退する。バンジャマンの妹マグドレーヌ(Magdeleine Godard)は、兄同様ヴュータンに師事した名ヴァイオリニストで、シャミナードの3歳下。1975年には兄と共にコンサートを行っているがシャミナードがデビューしてからは、シャミナードが伴奏を担当していた。パリ16区にはバンジャマン・ゴダール通り(約100メートル)がある。

コンチェルティーノ Op.107

コンチェルティーノ Op.107は1902年のパリ音楽院卒業試験の課題曲として作曲された。フォーレのファンタジーの時同様、フルート科の教授はタファネルだが、タファネルは、フォーレのファンタジーが作曲された1898年の春先に体調を崩しはじめていた。それでもオペラ座とパリ音楽院の指揮者、フルート科教授の仕事をしながら1899年の5月まではフルートのコンサートの記録がある。さらにインフルエンザが重症化したりして1900年にはエヌバン(Adolphe Hennebains)が公式に代理を務める事が新聞発表されている。1901年には回復し復帰するが体調は良くなかったようだ。「コンチェルティーノ」という曲名から、当初からオーケストラ版は考えていたものと思われる。この時代のパリでは、ピアノ伴奏で初演してからすぐにオーケストラ版が発表される事は多かった。前回のフォーレの演奏動画で紹介した子守歌 作品16は、1880年2月14日の初演後4月24日にはオーケストラ版が初演されているが1889年頃の作品なので最初からオーケストラ版を書いていた可能性は高い。またロマンス 作品28はフォーレの回の調査で、初演の1ヶ月ほど前に地方のオーケストラでのオーケストラ版初演の知らせが新聞に出ているのを発見したが、演奏後の評(ほぼ確実に掲載される)が発見できなかったので演奏はキャンセルになったと考えられる。その後オーケストラの楽譜は紛失し、作曲から40年後にゴーベールが再オーケストレーションした。シャミナードはオーケストラのための組曲という曲で初演が決まっていたのを2回延期(新聞には毎回予告が出ているが演奏されなかった)した経緯があるのでコンチェルティーノのオーケストラ版を同時に作曲していても完成まで慎重に練り上げた可能性がある。そこで調べてみたのだが、オーケストラ版の楽譜は1908年にEnochから出版されているが初演は1906年6月30日という事が分かった。(1902年にロンドン初演という記述があるが現段階では個人的な見解として幾つかの点で疑わしい)1902年のパリ音楽院卒業試験は、7月27日に行われたが、この日はコンコルド広場で当時のエミール・コング政権に対する数千人規模のデモが勃発した日だった。他の木管楽器の課題曲とフルート科の試験結果詳細はこちら。コンチェルティーノは、当時のフルーティストたちの間ですぐに評判になったようで12月にはピュヤン(Puyans)のフルートで演奏され、翌年にはゴーベール、ラフルーランスが演奏、さらにパリ以外でも演奏されるようになる。オーケストラ版は、トロカデロ宮でのビクトール・シャルパンティエ指揮による150人の大オーケストラでのガラコンサートにてエヌバンのフルートで初演された。以後は第一次世界大戦までを調べたがほとんどオーケストラ版の演奏で、パリだけでも毎年5〜6回、色々なフルーティストが演奏している。特に前出のコンセール・トゥーシュでは、年3回ずつ定番曲の様に演奏しておりフルートはフォーレのファンタジーの時の一等賞卒業のブランカールが全て演奏している。まさにベルエポックの大ヒット作であり、現在に至るまでフルーティストたちに愛され続けた(間違いなくこの先も)大名曲と言える。1912年にパリ音楽院で行われたサン=サーンス主催の「フランス音楽家のサロン」ではエヌバンがシャミナードの伴奏で演奏している。
前回のフォーレのファンタジーで解説したが初見課題曲も原則新曲の作曲者が作曲することになっていて、1902年度はシャミナードが書いているのだが、現在その楽譜の所在は不明。もしかしたら近い将来発見、公開されて、また1曲フルートのための名曲が世に出る事になるのかもしれない。
シャミナードの作品は、サロン用のピアノ曲等でもしっかりした構成の三部形式やソナタ形式で書かれた曲が多く、構成面での充実感が大きい。手抜きが無い。1911年出版の星のセレナード 作品142も優しく夢見るような曲想に対し、展開部が自由な構成(ポスト・ロマン派によく見られる)で、曲の最期を第一主題によるコーダで締めくくるという小規模だがガッチリしたソナタ形式の構成で書かれ、均整の取れた安定感のある曲に仕上がっている。作曲年は献呈のà Monsieur HENNEBAINS Professeur du Conservatoireからエヌバンがフルート科の教授になった1908年から1911年と思われるが正確には不明。Op.139が1910年作なので1910〜1911年と考えられる。



  • 作品名/編成 Concertino Op.107/Fl. Pf./Fl. Orch.
    献呈 P.Taffanel
    作曲年 1902/1902〜1906 ?
    出版社/出版年 Enoch/1902/1908
    初演者/初演日/初演場所 パリ音楽院卒業試験課題曲1902.7.27. Conservatoire 詳細は別表参照
    Fl. Adolphe Hennebains Dir.Victor Charpantier
    1906.6.30.Palais de Trocadéro
  • 作品名/編成 Sérénade aux Étoiles Op.142/Fl. Pf.
    献呈 Hennebains
    作曲年 1910〜1911 ?
    出版社/出版年 Enoch 1911
    初演者/初演日/初演場所 不明

もう一人の女性作曲家 メル・ボニス

シャミナードとほぼ同じ時代を生きたもう一人の女性の作曲家がいる。それが近年注目されているメル・ボニス(Mélanie Hélène Bonis 1858〜1934)。彼女の場合もシャミナード同様パリ音楽院への入学は両親から反対される。セザール・フランクにピアノのレッスンを受けていたが、オルガン科教授になったフランクが両親を説得し、彼女の場合はパリ音楽院に1875年に入学する。ちょうどシャミナードがパリ音楽院教授陣のレッスンを受けピアノの師ル・クーペのクラスのコンサートに出たりしている頃で、シャミナードがパリ音楽院に入っていれば、もしかしたら何かのクラスで同級生だったかも知れない。しかしメル・ボニスは両親によって途中でパリ音楽院をやめさせられる。その後結婚し音楽から離れるが作曲することはあきらめず、後に作曲家協会(Sociéte des compositeur de musique)に加入し作曲活動を続けたのだが、世間からの目を気にしてメラニーと言う名前をメルという、少なくとも女性とはハッキリ分からない名前で作品を発表した。フルートの曲はソナタをはじめ小品や室内楽曲が数曲あり、楽譜の再販と共に広く演奏されるようになってきている。ドラマチックな人生を送った人だが詳しくはメル・ボニス協会のウェブサイトhttps://www.mel-bonis.com(英語、フランス語)で。

実はシャミナードやメル・ボニスより10年ほど先に作曲家として生きた女性が2人いる。一人はオーグスタ・オルメス(Augusta Holmès 1847〜1903)、フランクに師事し最初はやはり名前を変えエルマン・ゼンダ(Hermann Zenda)という名前を使っていた。フルート作品として3曲から成る「小組曲」という作品を残している。この女性は詩人カチュール・マンデスとの間に3人の娘がいて、その娘たちはルノワールの絵画「ピアノの前のマンデスの娘たち」に描かれている。もう一人はマリー・ジャエル(Marie Jaëll)でピアニストとしても活躍した作曲家。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール《ピアノの前のマンデスの娘たち》

パリ音楽院自体は1900年頃までに作曲科への女性の入学には寛大になったが、作曲科に入った女性が最後に直面する困難が卒業時の ローマ大賞への挑戦だった。当時、誰も女性がローマ大賞にチャレンジする事など考えていなかった。保守的なパリ音楽院の中で院長のデュボアと次期院長になるフォーレはかなり革新的な考え方だったが、コンチェルティーノが書かれた翌年の1903年、フォーレのクラスで学んでいたジュリエット・トゥテン(Juliette Toutain 1877〜1948)という女性にローマ大賞のコンクールを受けるようデュボアと共に推薦する。ところがここで問題になるのが、受かった後のローマ滞在の条件で、第一に女性が2年間ヴィラ・メディチに滞在した例もなく、設備も整っていない。当時の留学生にはヴィラ・メディチ内で生活するにあたってメイドと付き添いが付くということもあった。そこでトゥテンは院長デュボアだけでなく文化大臣にまで改善を直訴する。これはすぐに受け入れられたのだが、その承諾書類はローマ大賞の締め切りが過ぎてから届けられるという全く納得のいかない対応になる。そこで国家評議会に提訴までしたが聞き入れられなかった。結果彼女はローマ大賞をあきらめた。ただこの戦いは無駄ではなく、翌1904年にはヴィドールのクラスからエレーヌ・フルーリー=ロア(Hélène Fleury-Roy)という女性がローマ大賞に挑み2等賞の次席となった。この時の主席がゴーベール。つまりシャミナードの活躍と1902年のコンチェルティーノの誕生が、女性作曲家のローマ大賞への道を切り開いたという事になる。
音楽部門のローマ大賞は1968年に廃止されたが私が直接会った女性のローマ大賞受賞者が二人いる。一人は長年の共演ピアニスト、野平一郎氏の伴奏科での師であるアンリエット・ピュイグ=ロジェ氏(Henriette Puig-Roget 1910〜1992)作曲、オルガン、伴奏、何でもできる、とにかくすごい人。引退後東京藝術大学の講師として日本に来ていた。そしてもう一人は私のアナリーゼの師であるジネット・ケレール氏(Ginette Keller 1925〜2010)。彼女は1968年のパリ音楽院フルート科卒業試験課題曲、Chant de Parthénope(パルテノぺの歌)を作曲している。


  • © MUSICA ET MEMORIA
    © MUSICA ET MEMORIA

    《1953年5月フォンテーヌブローにて ローマ大賞(ケレール氏再挑戦)最終審査の6人の参加者》

    左からウーディー、カステレード、ジネット・ケレール、デュファイ、ブートリー、オーバン
    Pierick Houdy / Jacques Castérède / Ginette Keller / Jean-Michel Defaye / Roger Boutry / Jean Aubain



次回は、コンチェルティーノ Op.107についての対談と演奏動画です。

<参考資料>

  • 参考資料(ウェブ)フランス国立図書館・電子図書館Galica内Retro news
  • Société d’histoire du Vésinet
  • Musica et Memoria
  • 調査協力、情報提供 出塚麻衣


C.シャミナード 対談(次回掲載予定)


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