東京学芸大学教授の清水和高先生に執筆していただきました。

※この記事は2021年に執筆していただいたものです。

第4回

サン=サーンス 辛抱のとき!

フルートが関係するサン=サーンスの作品は計6曲ありますが、50代に差し掛かる頃『見えない笛』(1885年)、『動物の謝肉祭』(1886年)、『デンマークとロシア民謡によるカプリスOp.79』(1887年)の3曲を立て続けに生み出します。

第4回は、ヴィクトル・ユゴーの詩による歌曲にフルートがオブリガートとして加わる『見えない笛』を中心にお話し致します。

サン=サーンス 辛抱のとき

フランス国民にとって計り知れない喪失感を与えた普仏戦争は、政治、文化など、様々な面でのターニングポイントとなりますが、なかなか一筋縄にはいかないのがフランス。1871年2月25日に設立をみた国民音楽協会においても、この日をもってフランス音楽の栄光を勝ち得たわけではなく、実際には、まだ大多数のパリの聴衆はその活動を懐疑的に見ているような状況にありました。

1872年、サン=サーンスは初の交響詩と念願のオペラをパリで上演します。
1月9日、交響詩『オンファールの糸車Op.31』、同年6月12日には、オペラ・コミック『黄色い王女Op.30』を初演しますが、その批評は惨憺たるものでした。

この時期のサン=サーンスに対する批判をみると「ワグネリアンの一派」といった文句が目につきます。

これは普仏戦争後のナショナリズムに目覚めたパリにおいて、ワーグナー派、反ワーグナー派といった対立がより先鋭化し、ワーグナー派の先鋒とみなされたサン=サーンスに批評家たちの批判が集中したことが一因としてあるように思います。

普仏戦争後、立て続けに降りかかる批判の嵐、多忙による疲労の蓄積、気管支系の持病の悪化、さらに1872年には最愛の大叔母シャルロット・マソンを亡くしたことも重なり、心身ともに疲弊したサン=サーンスは、1873年10月、冷たく湿ったパリを飛び出し、心機一転北アフリカのアルジェリアに向かいます。

24時間もの長い船旅を終え、アルジェリアの首都アルジェに降り立ったサン=サーンスの眼にまず飛び込んだのは、眩いばかりの太陽の光、緑、花、活気に満ち溢れた生命たちでした。 滞在先のムーア式のヴィラに落ち着くと、今度は静謐な空間に目を奪われますが、その時の印象について以下のように述べています。
この場所には誰も来ない
静寂と神聖な賛美歌を妨げる敵の声もない
ついに安住の地をみつけたサン=サーンスは、すっかりアルジェに魅了され、ここで2ヶ月保養することになります。

この滞在中に、代表作となるオペラ『サムソンとデリラOp.47』のスケッチを書き上げたことはよく知られていますが、この作品をパリ・オペラ座で公演すべく、帰国後の1874年8月20日、オペラ座支配人を招いた試演会を行います。

しかしまたもや「強情なるワーグナー主義者」といった批判が立ちはだかり、結局パリでの公演は叶わず、初演はドイツで行われることになりました。

1877年12月2日、リストの尽力もあり『サムソンとデリラOp.47』は ワイマールで歴史的大成功をおさめますが、この成功はサン=サーンスのキャリアにおけるひとつの頂点と考えられます。

国外で高い評価を受ける一方、母国フランスでは日の目を見ないサン=サーンス。アルス・ガリカ(フランスの芸術)を謳い、フランス音楽再興を目指すサン=サーンスには、しばらく辛抱のときが続きます。

サン=サーンスとワグネリズムについて

サン=サーンス(1875年頃)

1876年8月、第1回バイロイト音楽祭を訪れたサン=サーンスは、ワーグナーと再会します(1870年7月のスイスのワーグナー邸訪問以来、普仏戦争を挟んだ6年ぶりの再会となります)。

バイロイトでもまたワーグナー邸に招かれたサン=サーンスは、ワーグナーの妻コジマよりピアノ演奏をリクエストされます。この時サン=サーンスは自身の『英雄行進曲Op.34』を弾き始めますが、ワーグナーは「お、パリ風のワルツだね」とつぶやき、その場に居た夫人の腰に手を回してピアノの周りを踊り始めたのです。

この曲は、普仏戦争で勇敢に戦い命を落とした友人アンリ・ルニョーに捧げ、サン=サーンスにとってはまさにフランス再興の象徴ともいうべき作品。

ワーグナーのとったこの行動は屈辱以外の何ものでもありません(ワーグナーの面前でこの作品を選曲したサン=サーンスも挑発的ですが...)。

6年の歳月は2人の関係をすっかり変えてしまったといえますが、この音楽祭を境に、サン=サーンスはワーグナーと距離を置き始めます。
恐らくバイロイト滞在中のサン=サーンスは、心穏やかではなかったと思いますが、その心中は、バイロイト滞在中パリの新聞レスタフェット誌に寄稿した7つのレポートにより読みとることができます。
その一部をご紹介します。
私自身ある時期、自分がワーグナー主義者であると信じていました。しかし、私は如何に間違っていたのか、それがどれほど計算違いであったことか。何人かのワグネリアンと知り合い、私は彼らの一員ではないし、これからもそうなることはないと悟りました。(8/19の記事より)

ワーグナーマニアは滑稽だが許せる。 しかしワーグナー恐怖症は病気である。(8/28の記事より)
7つの記事を通読すると、作品に対してはその偉大さを認める一方、ワグネリズムを発端とした対立や分断に対しては嫌悪するといったスタンスで意見を述べていることが分かります。

その後もサン=サーンスは著書や論評を通し、ワーグナーに対する持論を表明しますが、しばしば主張の拠り所としたのが、フランスの国民的大作家ヴィクトル・ユゴーの言葉であり哲学でした。

サン=サーンスとユゴー

恐らく多くの方が何かしらユゴーの作品に触れたことがあるのではないでしょうか。私は子どもの頃に親からプレゼントされた小説『ああ無情』でユゴー作品と出会いましたが、最近ではミュージカルやディズニー映画で『ノートルダムの鐘』をご覧になった方も多いと思います。

どのストーリーも、貧困や対立がテーマとなっていますが、ユゴーは平和な社会を実現すべく、政治家としてもフランス国民を導き続けた、まさに国民的英雄ともいえる人物でした。

政治家としてのユゴーは、次第に独裁色を強めていくナポレオン3世を激しく攻撃したため亡命を余儀なくされ、イギリスの孤島で18年もの間過ごすことになります。ナポレオン3世失脚後の1870年9月2日に帰国しますが、パリ北駅に集まった数知れぬ群衆に迎えられての凱旋帰国となりました。

ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)

幼き頃よりユゴーに心酔するサン=サーンスは、ついにユゴーの自宅で念願の対面を果たし(初対面はかなり緊張していたようです)、その後積極的にユゴーの夜会に参加するようになります。

時が経ち、サン=サーンスはユゴーに捧げる『ヴィクトル・ユゴーへの賛歌Op.69』を作曲し、1884年3月15日、ユゴー同席の下、トロカデロ祭礼の間で初演します。
滅多に人前にでることのない偉人が登場すると観客は歓喜し、その光景はサン=サーンスにとって、まさに筆舌に尽くしがたいものでした。

この公演後、サン=サーンスはユゴーより食事の誘いを受け、その日を境に頻繁に食事を共にする親しき関係となります。翌年1885年5月22日、ユゴーは亡くなりますが、ユゴー最晩年の貴重な時間を共に過ごした経験について、後に「私の人生の中での最も貴重な思い出」と懐古しています。

ユゴーの死は世界中に衝撃を与えました。翌日のフィガロ紙の一面には、国民がユゴーの危篤を知った時、あらゆる階級、党派、宗派、文学的意見の違いといった利害や対立するものが、ひとつにまとまったことが記されています。

ユゴーは、まさにフランス国民の心の拠り所であり、道しるべともいえる存在だったのですね。

6月1日には国葬が執り行われ、2万人もの参列者がありましたが、この時サン=サーンスは、国葬の音楽を取り仕切る委員として参加しています。

『見えない笛』について

では、これよりフルートとソプラノの為に書かれた歌曲『見えない笛』について解説致します。歌詞はユゴーの『静観詩集』に収められた詩「おいで!見えない笛が」を用いています。
先ずは詩をお読みください。
おいで!- 見えない笛が
果樹園のどこかで、ため息をついている。-

何よりも安らかな歌は
羊飼いたちの歌。

風は樫の木の下で、
暗い水鏡にさざ波をたてる。-

何よりも陽気な歌は
小鳥たちの歌。

どんな悩みもきみを苦しめることがないように。
愛しあおう! 愛しあおう、いつまでも!-

何よりもチャーミングな歌は
恋人たちの歌。

Les Metz, aout 18..(清水 和高訳)

『見えない笛』初版の表紙/DURAND社

皆さんはこの詩をどのように解釈されましたでしょうか?

『静観詩集』は1856年4月23日、パリとブリュッセルで刊行されていますが、この時ユゴーは未だイギリスの孤島に亡命中でした。彼を知る人々はその境遇に思いを重ね、ひとつひとつの言葉に胸を熱くし読んだのではないでしょうか。
ちなみにこの詩集は発売されて即完売であったそうです。

『見えない笛』を演奏したことがある人は、あまりにこの作品に関する情報が少ないことに驚いたと思われます。また、詩をどう解釈したら良いのか、困った人もいるのではないでしょうか。

この作品について理解を深めて頂くために、恒例ではありますが、清水探偵による推理を行いたいと思います。

清水探偵による3つの推理

@詩の解釈について

この詩を解釈するにあたり、私は最後に書かれたLes Metz, août 18..に先ず着目しました。août 18..(18○○年の8月)ですが、このような抒情詩は全体的な雰囲気を味わうことが大事ですので漠然と「真夏のとある日」といった解釈が良いと思います。

すべてのヒントは、土地の名前を表したLes Metzにあります。

ジュリエット・ドルーエ(1806-1884)

時は遡り1833年1月... 30歳のユゴーは、パリのポルト=サン=マルタン座の楽屋で台本の朗読会の最中、部屋の片隅に佇む目も覚めんばかりの美しいジュリエット・ドルーエを見初めます。その後ジュリエットはユゴーの愛人となり、50年もの長きにわたりユゴーを陰で支える存在となります。

出会った頃のジュリエットは既に何人もの男と愛人関係にあり、豪奢で享楽的な生活を送っていましたが、後に2万フラン(数千万円)といった莫大な借金を抱えていることを知ったユゴーはジュリエットを激しく責め立てます。

一旦は離れ離れになりますが、心から愛しあっていた二人は直ぐに元の関係に戻り、ユゴーはジュリエットのためにベルサイユ近郊の村落に質素な家を借り、ここに住まわせます。この場所がLes Metzです。(ここから4キロほど離れた場所に、ユゴーが夏の間家族と過ごすロシェの館があります)
真夏のひととき、ほど遠からぬところに滞在するユゴーとジュリエットは、それぞれ道のりを半分ほど歩き、森の真ん中にある栗の木の洞のところで逢引きし愛し合います。

時にユゴーは家族にひきとめられ、会えないこともありましたが、そんな時ユゴーは手紙や詩を(ジュリエットは、はさみで切った四角い紙に鉛筆で書いた手紙)を木の洞の中に残し、想いを伝えあいました。

このあたりで詩の情景が浮かんできたと思われますので、もう一度、この詩を読み返しください。

ヒイラギガシ

おいで!- 見えない笛が
果樹園のどこかで、ため息をついている。-

何よりも安らかな歌は
羊飼いたちの歌。
真夏のとある日、果樹園で姿を隠したジュリエット(見えない笛)が「おいでよ!」と叫びますが、なかなか自分を見つけられないユゴーに対し「もう〜」とため息をつく。そんなほのぼのとした二人の光景が目に浮かぶようです。
風は樫の木の下で、
暗い水鏡にさざ波をたてる。-

何よりも陽気な歌は
小鳥たちの歌。
場面を一転し、自然を写します。
どんな悩みもきみを苦しめることがないように。
愛しあおう! 愛しあおう、いつまでも!-

何よりもチャーミングな歌は
恋人たちの歌。
ユゴーは、借金に苦しむジュリエットに対し「自分が命がけでもこの借金を返してみせる」と宣言した言葉が伝えられています。「どんな悩みもきみを苦しめることはない」といった一文は、ジュリエットを包み込むユゴーの優しさとみることができます。

自然の中で戯れる2人の姿が目に浮かぶような牧歌的な詩ですが、ユゴーがこの状況下にあったのが1834〜35年の2年間。つまりサン=サーンスが生まれる前、真夏のひとときのお話ということですね。

私は詩の最後に書かれたLes Metzからここまで読み解きましたが、きっと読者がこの詩を理解できるようにさりげなくしたためた糸口なのかもしれません。

A曲が誕生した背景について

サン=サーンスはこの詩を好み、1885年に『見えない笛』を生み出しましたが、既に19〜20歳の頃(1855年)同じ詩を用いたソプラノとバリトンの為の二重唱『おいでよ!』を作曲しています。つまり30年後に同一の詩を再利用したことになりますが、私にはその背景に、ジュリエットの死(1883年)とユゴーの死(1885年)が関係しているように思えます。

最愛のジュリエットに先立たれたユゴーの悲しみはあまりに大きく、葬儀では、ひじ掛け椅子に崩れるようにすわったまま参列できなかったことが伝えられています。サン=サーンスは、ジュリエットの死を目の当たりにしたユゴーの心情を慮り、改めて『見えない笛』を作曲したのではないでしょうか。

B初演について

初演に関する情報は皆無に等しいのですが、献呈者がレオン・フォンボンヌ(フランスのフルーティスト)ということだけは知られています。

ベルギーのリエージュで学び、1883年から1908年までの間、パリの親衛音楽団(ギャルド・レピュブリケーヌ)で活躍したフォンボンヌが『見えない笛』の初演者であるとすれば、その背景には1885年ユゴーの国葬が関係しているようにも感じます。

ユゴーの国葬:200万人を超える人々が凱旋門からパンテオンへ向けて列をなしたと言われています。

サン=サーンスは国葬の音楽を仕切る委員のメンバーであったことは先にお話し致しましたが、このような国家的イベントで演奏するのが親衛音楽団。この作品は、ユゴー没後、何らかの関連イベントの為に作曲され、音楽団のフルート奏者であるフォンボンヌが指名されたということも、ひとつの可能性として考えられるのではないでしょうか。

最後に

1885年にDURANDが再版した1855年作の歌曲『Viens!』の表紙。生い茂る木枝が水辺を覆う絵は、詩の内容を描写したものと考えられます。

最後に、演奏のポイントについて説明致します。
この作品のポイントは、良きテンポをみつけることにつきると思います。
デュラン社の譜面にはAndante espressivo(♪=72)が記されていますが、このテンポありきではなく、先ずは詩の情感を理解し、ユゴーとジュリエットが自然の中で時を忘れ戯れるような、ゆったりした時間の流れを感じさせる演奏ができたら成功間違いなしです! 1855年作の『Viens!:おいでよ!』を聴いてみることも大きなヒントになります。

『見えない笛』は、演奏時間が3分というごく短い曲ですが、フルーティストがサン=サーンスの歌曲の世界に浸ることができる貴重な作品です。

ぜひユゴーやジュリエットを温かく包み込む風のそよぎのような笛のイメージで奏でてみてください。

サン=サーンス/見えない笛

清水 和高

東京藝術大学にてフルートを金昌国、細川順三各氏に師事。ジュネーヴ音楽院にてマクサンス・ラリュー氏に師事しプルミエ・プリを受賞し修了。これまで日本木管コンクール入選の他フランス、イタリアのコンクールにて入賞する。帰国後は世界各国の音楽祭や大学より招聘を受け、マスタークラス、公演を行う。2019年、マクサンス・ラリュー氏と世界初モーツァルト オペラ デュオ全曲レコーディングを行い、フランスSkarboよりリリースする。2012年16年にはイタリアで開催されたセヴェリーノ・ガッツェローニ国際フルートコンクール審査員を務める(第5回は審査委員長)。
現在、東京学芸大学教授、日本管楽芸術学会会員。