東京学芸大学教授の清水和高先生に執筆していただきました。

※この記事は2021年に執筆していただいたものです。

第6回

サン=サーンス出奔、そして最期のとき

ルイ・ガレ(1835−1898)

いよいよ最終回となります。
1888年以降の後半生についてお話し致しますが、晩年に生み出されたフルートのための作品『オデレットOp.162』についても触れたいと思います。

先ずは、1888年から1890年に訪れたサン=サーンスの精神的危機についてお話し致します。

その発端は、オペラ座から依頼された新作オペラにありました。
オペラ座は1888〜89年シーズンのプログラムとスケジュールを以下のように打ち出しますが、サン=サーンスには、ルイ・ガレの台本による『アスカニオ』が委嘱されます。
  • @1888年10月
  • グノー『ロミオとジュリエット』
  • A1889年 1月
  • サン=サーンス『アスカニオ』
  • B1889年 4月
  • グルック『オルフェとエウリディーチェ』、トマ 『テンペスト』(バレエ音楽)
サン=サーンスは、このオペラにあらん限りの情熱を注ぎ、丸一年かけて準備しますが、1888年11月にリハーサルを迎えると、その情熱とは裏腹に、歌手たちの気まぐれや運営上の問題に頭を悩ませます。

そんな中、唯一の家族である母クレマンス・サン=サーンスが風邪をこじらせ、看病むなしく12月18日に亡くなります。特に母親との結びつきが強かったサン=サーンスの衝撃はあまりに大きく、全てを投げ捨てパリを飛び出します。

年も変わろうとする12月31日、向かった先は、南フランスのタマリでした。

第一次出奔

タマリでは、逐次『アスカニオ』の状況がガレからもたらされますが、延期に次ぐ延期が伝えられ、公演の見込みが立たないとみると、1889年3月9日にアルジェリアへと移動し、ここでは日々散歩や日向ぼっこなど無為に過ごします。
何の収穫もないまま1889年5月に帰国すると、サン=サーンスの目に飛び込んだのは、第4回パリ万博開催に沸き、夜ともなれは完成したばかりのエッフェル塔のライトアップに新時代の到来を感じる人々の姿でした。後世の私たちはそれをベル・エポック(美しき時代)と呼びますが、このときのサン=サーンスの心境、如何許りであったでしょうか。
オペラ座では、グノーの『ロミオとジュリエット』の大成功が新聞紙上を賑わし、『アスカニオ』より後に公演されるはずのトマの『テンペスト』も既に初演を迎え、新聞には「アスカニオは決定的に捨て去られ、オペラ座支配人はトマの作品を熱烈に支持している」とまで書かれます。

精魂込め制作したオペラが世に出ることすら拒まれ、プライドが粉々に打ち砕かれたサン=サーンスはここで、身辺整理し「過去を清算する」といった衝動的行動に出ます。

サン=サーンスには短い結婚生活がありましたが、且つて2歳半の長男アンドレが、目を離した隙に自宅マンションから転落し亡くなるといった、拭い去れない悲劇の記憶があります。

その自宅こそが重荷と感じたサン=サーンスは、家族の思い出の品や家具などを父方の故郷ディエップ市に寄贈し、1889年10月9日にパリを出奔します。

向かった先は、スペインのアンダルシア地方でした。

第二次出奔 〜サン=サーンスを探せ!〜

マラガ、グラナダを訪れた後、ジブラルタル海峡を挟み、アフリカ大陸とは目と鼻の港町カディスにしばらく滞在しますが、この地でサン=サーンスはいったい何を思ったでしょうか。

パリを出奔することは、盟友デュランとガレの2人だけには伝えていましたが、そのデュランには、カディスで書いた作品『スケルツォOp.87』を、ガレには「働きすぎで無駄にこき使われた人生へのひどい嫌悪感から脱出するため、遠く離れた地で別の自分を作り直したい」と記した手紙を送り、これを最後に一切の連絡を絶ちます。

サン=サーンスが次に向かった先は、北大西洋に浮かぶスペインの孤島ラス・パルマスでした。
12月14日、ラス・パルマスに着いたサン=サーンスは、ホテルの記帳簿に「フランス国籍」「カディス出身の商人」「シャルル・サノワ」と記入します。

ラス・パルマスの島民は、独特な雰囲気をもつサン=サーンスをすぐ意識しはじめますが、街中でまるでオーケストラを指揮するかのように頭と手を振っている姿から、この人物が音楽好きということはすぐに分かったようです。

ラス・パルマスでは謎の人物としてスパイに疑われるなど、面白い逸話がいくつも残されていますので、ぜひ注釈をご覧ください。
1890年2月以降、パリではサン=サーンスの失踪がマスコミを賑わしはじめますが、日刊紙ル・マタンは「サン=サーンスを探せ!」といった連載記事、ジュルナル・イリュストレ紙には、肖像画入りで失踪が報じられます。
4月に入ると、そのジュルナル・イリュストレ紙が発端となり、島民はこの謎の人物が大作曲家サン=サーンスであることに気づき島中が歓迎一色となります。

サン=サーンスは『サン=サーンス』であることに嫌気がさし、遠く離れた地で別の自分を作り直すためにこの島にやってきましたが、島民たちとの素朴な交流が、閉ざしていた心を少しずつ開かせ、ついにはパリに戻る決心がつきます。

4月17日深夜、ラス・パルマスに滞在した記念として作品を残し、島を去ります。(その後同地には幾度となく再訪し、1900年3月16日には名誉島民に選ばれ、サン=サーンスは現在に至るまで、島の誇りとして愛され続けています。)

サン=サーンスはラス・パルマスを出立した後、まるで旅を惜しむかのようにゆったりと時間をかけ、1890年5月20日、パリに帰郷します。

実に7ヶ月にもわたるサン=サーンスの逃避行でした。

ラス・パルマスに設置されたサン=サーンス像

20世紀、サン=サーンス引退を決意

20世紀に入ってもなお、指揮者、ピアニストとして旅から旅へ多忙を極めるサン=サーンスでしたが、70歳後半に入るとその活動に陰りをみせ始め、演奏家としての引退を決意します。

1913年11月6日、ガヴォ・ホールで引退公演が行われ8曲披露されますが、その中に私の大好きな作品『ヴァイオリンとハープのための幻想曲 イ長調 Op.124』があります。まるで印象派を思わせるこの素敵な作品は、フルートで演奏することもできますので、ぜひ皆さんのレパートリーに加えてみては如何でしょうか。
  • 引退コンサート/パリ・ガヴォ・ホール(1913)

第1次世界大戦勃発、そのときサン=サーンスは?

やがて戦争がもたらす痛みと破滅がやってくる。若くして死んだ方が、こんなに悲惨な目に遭わずに済んだのではないかと思う。
サン=サーンスは開戦直後、且つて味わった普仏戦争の凄惨な記憶がフラッシュバックしたのか、この様に記した手紙を友人シャルル・ルコックに送ります。

1914年8月3日にドイツが戦線布告をすると、フランス大統領は挙国一致体制を敷き、アカデミーの会員に向けても、自国を守るためにペンと言葉を使うよう呼びかけます。

このとき芸術アカデミー総裁の地位にあったサン=サーンスは、すぐさま筆を取り、ドイツの非道さと芸術を搦めた自論『ドイツびいき』を新聞に連載し、更にはドイツとオーストリアの作曲家の作品を、フランス国内で演奏することを禁じる「フランス音楽防衛国民同盟」なるものまで提案します。

これらの言論活動は、止むに止まれぬ愛国心からの行動とはいえ、ドイツのみならず自国フランスの評論家からも激しい非難を浴びることとなり、晩節を汚してしまいます。

『オデレットOp.162』誕生


旅好きサン=サーンスが訪れた地は数多ありますが、中でも北アフリカの地アルジェリアは、19回も訪れることとなるお気に入りの地でした。
終戦後の1919年には、17回目のアルジェリア滞在を行い(1919年12月〜1920年4月)、このときフルートのための最後の作品『オデレットOp.162』が誕生します。
作品が生まれた過程や背景については、幾つかの手紙から知ることができますが、1920年3月19日付けの2つの手紙をご紹介します。
この楽器のための作品はかなり珍しいので、フルート奏者は砂漠で降ってきたこの風物詩に満足するでしょう。(フィリップ・ベルノ宛)

私は緑と花と香りの中で平和と静けさを手に入れました。ピアノのために書いたのも、オーケストラ付きのフルートのために書いたのも、まったくそのつもりはありませんでしたが、思わぬところから作曲の魔物が蘇ってきたのです。(ピエール・アゲタン宛)
この作品は、フルートのレパートリー拡充のために書かれたこと、アルジェリアの静かな環境がインスピレーションを与え、予測せず同地で生み出されたことが分かります。

オデレット(Odelette)は、オード(Ode)に縮小辞が加えられた言葉ですが、サン=サーンスはアゲタンに「この言葉(オデレット)は、まだ音楽では使われていません」とも述べており、大変珍しいタイトル名といえます。

オードは「頌歌」を意味しますが、この言葉は「ほめうた」とも読めるように、神や人、自然、功績など崇高な主題を「褒め讃える」といった特徴があります。

サン=サーンスが17歳のときに、コンクールで優勝した作品『聖セシルのための頌歌』もまた「オード」ですが、私には、人生最初の成功を掴んだこの「オード」と、晩年の作『オデレットOp.162』が対になっているように思えて仕方ありません。

サン=サーンスは人生の総括として、自身のこれまでの功績を慎ましやかに讃えるといった意図で「オデレット」を付したのではないでしょうか。

初演は1920年9月12日、ガストン・ブランカールのフルート、アルマン・フェルテ指揮によりディエップのカジノで行われました。

初演について「ブランカールが私のオデレットを大成功させたとのこと。しかし、いつになったら聴けるのか? 恐らく一度もないだろう」とデュラン宛に書いた手紙が残されています。ブランカールの名演が成功を導いたことと、初演には何らかの都合で立ち合えなかったことが分かります。

1921年、サン=サーンス最期のとき

サン=サーンスは既に演奏家としての引退公演を行っていますが、第一次世界大戦中には慈善演奏やアメリカ・ツアーなどを活発に行っていますので、結局引退とはならなかったようです。

=8月=

8月6日、ディエップのカジノで人生最後のリサイタルを行い、8曲演奏します。 演奏を終えたサン=サーンスは、聴衆に向かって「今から75年前、私は人前で初めて演奏し、今日が最後の演奏となりました」と告げ舞台から去ります。
公演プログラムの7曲目に『オデレット』がありますが、前年同地での初演と同じブランカールのフルートとフェルテの指揮により再演されます。
もしかしたらこのラストリサイタルは、前年の初演に立ち会えなかったサン=サーンスが「いつになったら聴けるのか? 恐らく一度もないだろう」とこぼした愚痴から、セッティングされたのかもしれません。
とすると、『オデレット』が結んだ公演ということが推測されますが、ともあれ人生最後の公演にフルート作品が含まれていることは、フルーティストとしてなんだか嬉しい気持ちになります。

=11月=

オペラ『アスカニオ』が蘇演されます。
『アスカニオ』は1890年3月21日の初演後、そのまま30年間埋もれることとなり、レイナルド・アーンの指揮で再演されます。結局『アスカニオ』はヒット作とはなりませんでしたが、初演の直後にタファネルがフルートとピアノ用に編纂した『歌劇「アスカニオ」バレエのアリア アダージョと変奏』が生まれています。
この作品は、完全なるサン=サーンス・オリジナルとはいえませんが、『アスカニオ』から派生したフルートの名作が、もうひとつ誕生したことは喜ばしい限りです。

=12月=

いよいよ最期のときです。
19回目となるアルジェリア滞在では、12月4日に定宿のオアシス・ホテルに到着して早々、自作の校正やオーケストレーションなどを精力的に行い、最後まで音楽家としての意欲を失わずにいましたが、12月16日22時半、怖れていた肺水腫を発症し、最愛の地アルジェリアでこの世を去ります。
亡骸はアルジェリアで聖別された後、12月21日にパリに到着します。
この日のパリは、まるでサン=サーンスの死を悲しむかのように冷たい雨が降りしきっていましたが、18時に亡骸を乗せた列車がパリ・リヨン駅に入構したときには、その雨も止みます。
葬儀はサン=サーンスの功績が讃えられ、マドレーヌ教会での国葬となります。
このマドレーヌ教会は、且つて教会オルガニストとして数々の即興演奏を繰り広げ、リストをして「世界一のオルガニスト」と言わしめ、名声を広げた教会です。
まさにキャリアのスタートとなったその場所に、激動の人生を終えたサン=サーンスは再び戻ってきたのです。
サン=サーンスは、フランス音楽再興を目指し国民音楽協会を設立しましたが、その後、ドビュッシーやラヴェル、そしてフランス6人組など、多くの人材が活躍するフランス音楽の黄金時代へと繋がります。まさに黄金時代の立役者ともいえるサン=サーンスは20世紀までを生き抜き、その繁栄を見届けた後、旅立ったと言えます。
1年間にわたり、サン=サーンスの人生を巡ってきました。あまり知られていないエピソードや推理などを織り交ぜお話し致しましたが、お楽しみ頂けましたでしょうか。今後、ご紹介しました数々のサン=サーンスのフルート作品が一層クローズアップされ、より多くの方にお楽しみ頂けることを願い、締めと致します。

オデレット Op.162

  • 幻想曲 OP.124

    (ヴァイオリンとハープのための)

    商品ID:29526

    *こちらの楽譜はヴァイオリン譜です。
  • 舞曲、アダージョと変奏

    (「アスカニオ」より)

    商品ID:7736

清水 和高

東京藝術大学にてフルートを金昌国、細川順三各氏に師事。ジュネーヴ音楽院にてマクサンス・ラリュー氏に師事しプルミエ・プリを受賞し修了。これまで日本木管コンクール入選の他フランス、イタリアのコンクールにて入賞する。帰国後は世界各国の音楽祭や大学より招聘を受け、マスタークラス、公演を行う。2019年、マクサンス・ラリュー氏と世界初モーツァルト オペラ デュオ全曲レコーディングを行い、フランスSkarboよりリリースする。2012年16年にはイタリアで開催されたセヴェリーノ・ガッツェローニ国際フルートコンクール審査員を務める(第5回は審査委員長)。
現在、東京学芸大学教授、日本管楽芸術学会会員。